ヴィオレットの丘から離れレイラとルーンは、とある場所に来ていた。レイラの目の前には大きな古めかしい建物があり、付近には人を寄せ付けないような鬱蒼とした森があった。迷いの森とは違い禍々しさは感じられないが、人里離れているせいかどこか神秘的な雰囲気を纏っている。近くにある建物は蔦で覆われていて、ところどころ劣化している部分がある。人の気配は感じられない――放置された場所だったのかもしれない。
「ここは……」
「肝試しの場所としてはまだまだ需要がありそうだね。ここはあの人……レガリアの別荘であり研究施設さ。そして、僕が生まれた場所でもある」
レイラは息を呑む。ここが――感慨に浸るよりは驚きの方が勝る。ルーンが生まれた場所――それにしては物寂しさがある。やはり、もう使われていないのだろうか。
「近年は研究所として再利用してたようだけど、いらなくなってからは放置だね。けど、僕はたまに帰っていたんだ。誰もいなくて落ち着くからさ――ここにくれば世界に一人だけになったような気持ちになれる」
外界から隔絶された空間が縛られていたルーンにとっては癒しだったのだろう。誰もいないなら確かに憩いの場所にもってこいだ。
だが、何も知らない人間が入るには少し勇気がいる気がした。ルーンは慣れた様子で恐れず中へ入っていく。どうやら、鍵はかけていないようだ。盗られて困るものはほとんど置いてないのかと思ったが、中に入ったらその考えは無駄だということが分かる。
中には何もなかった――家具も何もなくなっていた。研究所だったという割には何の資料も、道具も置かれていない。まるで、最初から何も無かったかのような空間が広がっている。埃だらけで壁の塗装も剥がれ落ちていて、まったく人の手入れが無かったようだ。
「……手入れとかはしなかったんですか?」
「一人になりたいだけならする必要なかったからね。研究所もとっくの昔に閉鎖さ。レガリアに言われて後片付けは僕がやった。おかげでキレイさっぱりだろ」
「まるで痕跡を残したくなかったみたいです」
「全て片づけろってオーダーだからね。その通りやったよ。何なら、この家ごと壊しても構わなかったんだろうね」
「それでも、残したんですね」
「勿体ないだろ。壊すのはさすがに面倒だし」
きっと、レガリアはこの場所のことを忘れてしまっていたのだろう。だからこそ、ルーンが安らげる場所として残された。本来ならば、失われていた場所――レイラは何もない部屋の中を見て回った。レガリアの別荘はかなり大きく、様々な部屋があった。レガリアはもしかすると昔は貴族だったのかもしれない。確かめる術は無いが、かなり立派な家だと思われる。
「これだけの部屋の家具を片付けるの……大変だったのでは」
「魔法で全部運びだして燃やせば簡単だ。量はかなりあったけど、何とかなったよ」
「ルーンの生まれた場所って言ってましたよね。自分の私物とか無かったんですか?」
「……生まれた場所はその通りだよ。かと言って、僕は人間らしく暮らしてたわけじゃない。道具の扱いと変わらないんだよ」
ルーンの声は少しだけ沈んでいた。過去を思い返しているようであった。レイラは止めようとしたが、ルーンは首を横に振った。どうやら、昔の思いを吐露したいようだった。
「生まれた頃の記憶、ほとんど無いんだけどね。気づいたらここにいて、色んな事を学んだ。目まぐるしい一日だったな。あの人の罵詈雑言や罰は苦しかったけど、それでも新しいことを覚えるのは好きだった。見たことのない世界を見るのは密かな楽しみでもあった……その記憶は間違いなかったはずなんだ」
ルーンは部屋の一角にある窓に触れながら、外を眺めていた。その姿は外に憧れる子供のようにも見える。
「それでも、僕は心の奥底では世界が壊れるのを願っていたんだろうね。レガリアが望んだ世界が……壊れるのを。そうすれば、全てが無になって僕は解放される――僕が叶えたかった願いで、嘘偽りない本音――」
世界が壊れてしまえば、全て無かった事になる。切実な願いだったのだろう。誰もレガリアを殺せない以上、世界ごと壊してしまうほか、自由にはなれない――現実とはルーンにとって最悪な場所で、耐えがたいものだったのだ。
最初からルーンの願いは決まっていた――疑う余地など無いほどに。レイラは本当の願いを聞き出そうとしていたが、すでにルーンは言っていた。
「……初めからあなたの思いは変わらなかったんですね。世界が壊れて欲しい――紛れも無い真実だったんですね……他にあるって思い込んで、ごめんなさい」
「はっきり言わなかった僕も悪いし。何より……真実は一つとは限らない。あくまで数ある思いのうちの一つでしかない」
他にもあるような言い方であった。けれども、願いは叶っている――ならば、ルーンは一体何を望んでいるのだろうか。
「僕は本当にレイラに感謝している。願いを叶えてくれるって信じてた。だからもう、なにもいらないんだ……君がどこへ行っても、僕は止めやしない」
どこまでも穏やかな表情と口調にレイラは逆に戸惑いを覚える。かつて見た表情に似ているような気がした。確か、そうだ――この顔はあの時だ。
「……あの、聞きたかったことがあるんですけど」
未だに踏み込めていなかった領域だ。謎を解くように、レイラはゆっくりと問いかける。
「どうして、私に魔法を教えてくれなかったんですか」
「それは――」
言葉を紡ごうとしたが続かない。しばらくルーンは固まっていた。時をゆっくり遡るかのように、目を瞑りやがて独り言のように語り始めた。
「あれは……あの時は本当に間違えたんだ。僕が自分の意思で選んだ末に招いた最悪な現実。さっきは、世界が壊れるのを願っていたって言ったけど、僕にはもう一つ捨てられなかった思いがあった」
もう一つの真実――ルーンにとっては、苦しい記憶なのか。レイラには分からないが、知らないままなのは嫌だった。どんな思いがあったのか、全て知りたかった。ルーンにとって辛い記憶であっても、封じ込めて欲しくは無かった。それがレイラ自身に関することなら、なおさらだった。
ルーンは壁にもたれながら、手さぐりに記憶をたどるように呟く。
「君を……救いたかった。僕がヴィオレットにいたとき、思い悩んでいた。色んな嘘や罪を重ねてきて、本当にこのままでいいんだろうか――罪悪感が芽生えてきた頃さ。レガリアの命令で学校生活を送って、さらに自分の異質さが分かって……自己嫌悪に陥っていた。誰とも関わりたくないそう思うようになっていった。そうすれば人を傷つけずに済むって、本気で思った」
ルーンはレガリアの命令で、様々な国や街の住人を死の牢獄へ堕とし封印を持続する為の餌にしてきた。きっと数えきれないほどの人の怨嗟を背負ってきているだろう。楽になりたいなど、軽々しく言えるはずが無かった。反省していたとしても、すでに起こってしまった過去は変えられない。雁字搦めになった感情は、やがて人を忌避するようになっていったようだ。
「これでもね……一度はレガリアに聞いたんだよ。自分の中にある感情が何なのか。痛みはどうすれば消えるのか、ってさ。そしたら、あの人は興味無さそうに言ったんだ」
――お前が抱いた痛みは所詮はまやかし。時間と共に過ぎ去り消え去るもの。余計なことを考えず言われたことだけやっていればいいのです。そうすれば苦しまなくて済む。
ルーンはレガリアの言葉を一字一句覚えていたようで、淡々と告げる。生みの親であるレガリアに言ったのは少し驚きだった。だが、レガリアの回答はルーンが求めていたものではなかったのだろう。そうでなければ、今頃レガリアの言う通り苦しんでいなかったはずだ。ルーンが造られた存在だとしても、心は確かにあったのだ。他でもないレガリアがつけたものなのに、無責任だとレイラは思った。
「デタラメもいいところだよね。僕に自由は無いはずなのに――苦しみから解放されるはず無いのにさ」
「ルーン……」
「話を戻すけど、色々と考えていたときに出会ったのが君だった。グラスの器であることは知っていた。監視するようにレガリアから命令され、封印の管理がてらヴィオレットに入り込んだんだ。監視目的だったから別に何かするわけじゃなかった。だから、魔法を教えてくれって言われたときは驚いたよ」
「魔法を教えてもらいたかった気持ちもありますが、本当はあなたに笑顔になって欲しかったっていうのもあるんですよ」
昔のルーンは今とはだいぶ印象が違っていた。メロディアが言っているほど、無口では無かったが友好的でも無かった。子供の相手は面倒そうだと思っていそうだった。それでも、レイラは笑った顔が見たくて、足しげく通っていた。ルーンはあまり会話してくれなかったが、レイラはいなくなるまで通い続けた。結果はあまり功を奏することは無かったが、思い出として印象深く残っている。
「あの頃はそんな余裕無かったからね。魔法を教えるにしても、セゾンに教える方で手いっぱいだったな」
「あー! やっぱり。セゾンってルーンから魔法を教わってたんですね。独学で学んだって言ったんですよ。おかしいと思いました!」
「せめて、レイラを守る力ぐらいあれば困らないだろうって思って、教えたんだ。僕から教わったことをレイラに黙っているっていう条件付きでね」
約束を反故に出来ない以上、セゾンははぐらかすしかなかった。レイラに何を言われようとも口を噤んでいた。いろいろ言ってしまったのを思い出す。少しだけ、申し訳ない気持ちになった。
「……グラスの器は魔力によって左右される。なら、魔法を教えないほうがいいんじゃないかって。遠ざければ、いいんじゃないかって思ったんだ。魔法は魔力のメーターとして分かりやすい。見込みが無ければ消えるかもしれない今思えば、浅はかな選択だった。結果は――レイラが身をもって体験した通りだよ」
「そういうことだったんですね。陥れようとしたわけじゃなかった……」
ルーンなりにレイラを救おうとした結果――レイラは災厄の力を扱えるほどの魔力を持つことになり、器として最高の状態になった。ルーンの意図しない方向へ、運命は流れていったのであった。声や表情にはもはや悲しみも苦しみも無く、淡々とルーンは自分の行ったことについて俯瞰的に語る。
「けど、結局は君を地獄に堕としたようなものだ。レガリアに縛られているのを忘れて、その道から外れようとしたんだ。僕がどう行動しようが、レガリアの利益にしかならない。恐らく、街も国も僕が滅ぼさなくても巡り巡って、滅ぶ結果にしかならなかった――それに気づいた時、僕はどうしようもない絶望感に襲われ、心が折れたんだ」
どうやってもレガリアが得するようになっている――なんとおぞましいことだろう。心を与えておきながら、決められた動きしか許されない。意思など最初からあって無いようなものではないか。自分で考えたはずなのに、いつの間にかレガリアの為に動く機械と化す――ルーンの抱いた絶望は計り知れないだろう。
「けど……色々あって諦めずに進んでみようって思ったんだ。途中でこれでいいのかって、何度も思ったけど僕の手には負えないから。レイラのことは最初からずっと信じてたよ。出会った時から変わらない、君の純粋な心は唯一の希望だった」
曇りの無い瞳でルーンはレイラに告げる。目を逸らすことも無く、取り繕うことも無いありのままの思いが伝わってくるようだった。
「そんなわけで、僕の願いよりも君の思いを大事にして欲しい。君が望む……未来へ」
ルーンの本音を聞き言葉に出来ない思いが溢れてきて、様々な記憶がさざ波のように押し寄せる。辛い目にあった時の方が多い人生だった。
それでも、レイラはこの旅の中で手に入れたかけがえのない思いを無かったことにはしたくなかった。無駄になってしまうなど、あってはならないことだ。楽しい記憶も苦しい記憶も全て、レイラを構成するものだ。思い出は人を形作るものであり、なくてはいけないものだ。そう思えば、レイラの答えは自然と決まっていた。
「私はこの世界が好きです。無くなって欲しくない。皆の思いが消えてしまうのは嫌です。私は願う――どうか自分の思いを忘れないで欲しい、と」
レイラの中で導かれた真実は揺るぎないものであった。ルーンは一体、どのような気持ちで聞いているのだろう。ルーンは顔色一つ変えなかった――驚くほど穏やかにレイラを見つめている。レイラの思いを肯定しているのか――レイラが考えていると聞きなれた声が聞こえてきた。
「なるほど~それが導き出した願い……真実であり輝きというわけだね」
「はい。もう迷いはありません。私は皆の輝きを守りたいんです」
「君ならそう言ってくれるだろうと思ったよ。よかった、よかった。早速、取り掛かろうじゃないか――」
ユラギがレイラと共に、消えようとしたときだった。
「待って、レイラ」
レイラの腕が強く掴まれる。
その手はまるで、この世界に引き留めるかのようで――