Fata obstant.

 感情が無いわけじゃない。褒められたら嬉しいし、罵倒されたら悲しい。自分にも意思が――心があると思っていた。
 けれども、自分の中にあった『心』と呼ばれる部分は、ただの紛い物に過ぎなかった。生まれた時のことははっきり覚えている――

 暗い水底に沈んでいる感覚。生まれた時から水槽の中に閉じ込められていた。重苦しく、水の流れは押し付けられているようで好きではない。
 自分を隔てる透明な壁の向こう側に存在する世界に対し、何の感情も抱くことが出来なかった。無表情で向こう側をずっと眺めていた。

 しばらくしてから、色々なことを叩き込まれた。この世界の歴史や常識、魔法の使い方など普通の人間だったら頭がパンクするぐらいの内容を完全に覚えるまで叩き込まれた。少しでも間違えようものなら、刺のような言葉の雨に打たれた。この時はまだ何も感じていなかったからよかった。

 あの人の言葉は今でも呪いのように繰り返される――
 
『私の為に生きて、私の為に死になさい――それがお前の存在理由よ』

 自分が普通の人間とは異なるということを知るのに時間はかからなかった。だからこそ多くのことを学んで、人の中に溶け込もうとした。自分なりに理解しようとしたはずだった。
 だが、そう思っていたのは自分だけだった。あの人に言われて学校へ通うものの、同級生だった子からは「化け物」とか「人でなし」とか言われた。何が悪いのか考えてみたけれど、出た結論はどうやっても人にはなれないということ。

 度を過ぎた力は人間に恐怖しか与えない。むしろ、その恐怖を人間へ与える為にもたらされた力なのか――

 そのことが理解出来たとしても、この力を手放すことは出来なかった。
 いや、自分の意思で手放すのは不可能だったというのが正しいのかもしれない。あの人が必要だと思って僕に授けた力なのだ。あの人の役に立たなければ、自分の存在意義など無いし、そのことについて何の疑問も無かった。
 
 そんな自分にある日ちょっとした変化が現れた。きっかけはあの人の命令で町を一つ消したときだった。何かがおかしいと思った。
 けれども、その出来事を体験してから、自分は人間じゃないのか――そう思い始めた。

 女の子が泣きそうな目でこっちを見ていた。その目がとても恐ろしかった。こっちに手を伸ばしてきて、同じように引きずり込もうとしているように見えた。でも、彼女は最後まで悲しげな瞳をしていた。最期彼女は、恨み言も無くむしろ憐れむような目をしていた気がする。どうしてだろうか。僕はあの時なんと言ったのか。思い出せない、いや覚えてるはずなのに――

 この時ようやく、僕は自分のやっていることを思い知らされた。思い知らされたものの、僕に出来ることなど無かった。そこから何かが刺さったように抜けなくなった。今でも苦しいのに、自分ではどうしようもなくて――あの人に思い切って言ってみたんだ。
 そうしたら、あの人は「お前が抱いた痛みは脳が作り出したまやかしに過ぎない。時間と共に過ぎ去り消え去るもの。余計なことを考えず言われたことだけやっていればいいのです。そうすれば苦しまなくて済む」興味無さそうに言った。
 あの人の言うことは正しい――そう思いながら従ってきた。いつかきっと救われると信じて――屍を積み上げてきた。

 しかし、一向に苦しみは消えない。それどころか増していくばかりだった。言われたことばかりやっている人形だからいけないのだろうか。
 けれども、人形だって手入れをしなければ汚れていく。穢れはひとりでに落ちることはないし、時間が経てば経つほど落ちにくくなる。一体、僕はどこで間違えてしまったのだろうか。

 いつだって叫んでいたんだ。声も上げずに、誰にも届かないところで僕の心はひっそりと叫んでいた。
 だけど、それでは誰も助けてくれない。大きな声を上げなきゃ誰も気づかない。
 言われなくても分かってる、分かってるってば。
 でも僕には出来ない――この思いは縛られたまま、どこにも行けないから。

 だから賭けるしかない――託すしかなかった。
 この塗りつぶされた感情から解放されるには、すべてを終わらせるしかない。苦しみから解放されるにはそれしかない。

 救う為なら、何でもやる――本当の思いを闇の中に沈めてでも。