『私の役目……実はあの解釈、私は結構好きなんです。存在が肯定されているように聞こえますから。けれども、実際のところ、私にもよく分からないので、回答出来ないのが残念です』
世界は単一ではない。人の数、選択の数だけ世界がある。
『私は分かれた枝の先にいる存在。分岐の数だけ私はいる』
例えば、ある少女は二手に分かれている道の前で立っていた。二択だ。どちらの道が正解か、少女には分からない。少女は悩んだ末に右の道を選ぶ。このとき、選ばれなかった左の道は消えてしまうのか――結論から言えば、そのようなことはない。選ばなかった道にも先があるのだ。少女がその世界を認識するのは恐らく、後悔したときくらいだ。
だからこそ、人は足掻き続けるのだろう。正解の分からない、暗闇の中をひたすら歩み続ける。成功したとしても、転がり落ちることもあり、一筋縄ではいかない。それどころか、命を落としてしまうことだってある。
だからこそ、人生は儚いと言われるのだろう。後悔の無いように生きろ、と言うのだろう。
『私でさえ、満足に生きられなかったのですから、人間はもっと生きづらいでしょうね』
未来と可能性と思いが入り混じった空間。今はまだ、何もない。いずれ、世界が作られる場所である。
かつて、ミオネと呼ばれた存在は独り光の中に漂っていた。ミオネはもはや、形を保っていなかった。ミオネの場合は元に戻ったというのがこの場合は正しい。ミュオソティスと一体化したミオネは、ミュオソティスの記憶を咀嚼していた。ミュオソティスが抱いた人間への思いは、一言では言い表せないほど複雑なものだった。記憶は、ミュオソティスが体験したものだが、ミオネが心の片隅で思っていたことでもある。ミオネがしまい込んでいた気持ちそのものなのだ。自身だからこそ、接する態度も冷静になる。客観的に見れば見る程、浅はかさが露呈する。
『それもまた、人間……らしさというのでしょう』
ミオネは誰もいない空間で静かに笑う。人に恋焦がれ、人の心に絶望して、空魔という存在を作り出したミュオソティス。挙句の果てに作り上げてた夢の世界を自ら壊す。これらの物語は全て無かったことになった。
たが、ミオネは覚えている。あの世界に生きていた者たちの記憶、思いをミオネは内包している。全て無駄だったという人もいるだろう――それでも、確かに存在していた世界なのだ。今では愛しく思う。
『捨てたのかと思いましたが、決して諦めたわけではないのですね。その願い、叶うといいですね』
あの世界で出来ることは、すでに無かった。終わる世界で滅びを待つより、新しい世界を目指す方が遥かに建設的だ。希望の無い世界で生きるなど、枯れた大地に種を蒔くようなものだった。
『ただ、あの世界を望んでいたモノがいたというのも、また一つの真実――』
たとえ、世界が終わるとしても、大切なものがそこにいればいい――それ以外は何もいらない。どこまでも自己主義で排他的な世界。決して否定はしないが、どこか物悲しい世界に思えた。決定的に前者とは交わらない。むしろ相反する心だった。だからこそ、あの黒猫は何も言えなかったのだろう。猫か人間か。どちらの心が揺り動かしたのか――考えるのも野暮だった。
『元より、人の心は私にどうにか出来るものではないのです。そもそも、私にそんな力はありません。選ぶのはいつだってその人自身』
ミュオソティスは人の心を操れると言っていたが、結局の思い通りにはならなかった。竜胆は半分だけ空魔になりながらも、最期まで己の心を貫いた。竜胆は負けていたと思っているが、ミュオソティスがあれだけやっても、心が折れてないのだから、大したものだ。
『もっとも、私に褒められたとしても、嬉しくないでしょうけれど。というか、気にも留めないでしょうね』
竜胆はそういう人間だ。他者の評価など気にせず、我が道を進む強さを持っている。人として、かなり完成された部類であると思う。一方で、少しの失態も許せない質であるが故に空魔に固執し続け、周りが見えなくなる。その結果が葵との亀裂だ。
『私が狂わせた。思いが、全て狂わせた』
あの世界が終わってしまったのは、ミュオソティスが人の思いに耐えられなくなったからである。ミュオソティスは人の思いに触れ、自分の行いを悔やんで、全てを諦めてしまった。これは最期まで竜胆に明言しなかったが、そもそもあの世界はミュオソティスが生み出した世界で、彼女にとっての都合の良い箱庭だ。ミュオソティスの人間への憧れで創られた世界。自分が人間の世界にいたら、どうなるかという、壮大なシミュレーションである。完全に人間に馴染めればよかったが、人間の世界で生きる以上、どうやってもミュオソティスにとって不都合な部分が出てくる。
だからこそ、管理者権限で本来存在しないような、事象や怪物が生み出された。本人は全くの無自覚だったが、空魔という存在にはそのようなカラクリがある。
やがて、自分で創った世界にミュオソティスは絶望していく。人の思いが潰された世界に、輝かしい未来など来ない。腐り切ってしまった感情を戻す術はもう、どこにもなかった。全てが遅すぎた――というのがこの物語の終幕である。
『……ミュオソティスの心を鎮める箱庭――とは言っても、あの世界は間違いなく、存在していたのです』
ミュオソティスから作られたとはいえ、可能性の一つとして存在していた。あの場所で起こった出来事は、ミオネの中に記憶されている。でなければ、紫苑を使ってミュオソティスを探す必要など無かったのだ。
『世界を大きな盤上というのも、あながち間違っていないのかもしれません』
失敗したというのなら、いっそのこと、綺麗さっぱりリセットしてしまえばいい――月宮紫苑はそう思ったのだろう。他に世界が――可能性があるのなら、そこにいるのが自分でなくても構わない。この選択が正しいのかは、誰にも分からない。
きっと、納得出来ないモノも多いだろう。これまで歩んできたことが無駄になってしまうと思うモノもいるだろう。茶番だとか、死んだモノたちが報われないと叫ぶだろう。
それでも、紫苑は決めたのだ。
『たとえ、どのような結末であっても、世界が素晴らしいと思える方が良い――』
思いを重ねた分だけ、世界は広がり、思いはどこまでも繋がっていく。この世界が消えてしまったとしても、ミオネは覚えている。
『また、どこかで会ったら……よろしくお願いしますね』
ミオネは再び世界に溶けていく。希望の波がミオネの周りを流れている。温かな光に包まれ、ミオネは波風を鎮めるハルシオンの如く、心の海を旅するのであった。