黄昏から止まっていた時は、目まぐるしく動き出していた。
紫苑と柘榴がやってきたのは海辺だった。海は夜明けの光に照らされ、空は群青色と橙色が鮮やかなグラデーションを描いていた。辺りは穏やかな風と共に、静謐な空気が漂っている。
「色々考えたけどね。私、この世界好きだよ。だって、私が望んだ世界だし」
柘榴は静かに紫苑の話を聞いていた。答えという大層なものでもなく、ただの本音だ。
月宮紫苑は痛みを感じない、冷淡な人間だと思っていた。それは覆すことの出来ない真実だった。
けれども、思い出という名の記憶が増えるたびに、盤石なはずの世界は揺らいでいく。身近な人が死んでいく度に出てくる違和感に、戸惑いを覚えるようになった。何も感じないはずなのに、胸の奥底知らない感情が芽生えていた。知らぬ間に出来た傷が、傷跡が疼いているようだった。
痛みは失ったものだと気づいた時、取り戻したいと願った。
そして様々な困難を乗り越え、真実に辿り着いた。
しかし、真実は――現実は残酷だった。取り戻したかった記憶も結局のところ、自ら捨てたものだった。生きていく上で避けられない、痛みや苦しみに耐えきれなかったから、逃げ出した。そんな自らの弱さを認めてくれる、この世界に導かれた。
だが、ここも泡沫の夢に過ぎなかった。希望を抱いて、夢に溺れ、現実を直視出来なかった少女が作り出した幻想だった。
「ここを最後の真実にしても、良かったけどね」
この世界で最後まで生きていくという選択――それくらいこの世界のことを気に入っていたのだ。終わりかけの世界で柘榴と共に命果てるまで――本来なら、それでも良かった。紫苑の願いは、クロが生き延びられる世界が欲しかったというのも、あったからだ。紫苑の心は弱かったが、それでも譲れなかったのはクロの存在だった。願いは叶い、クロは元気にこの世界で暴れていた――はずだった。
「私はクロが好きだったんだよ。私の愚痴に文句も何も言わず、そこにいてくれたあの子が大切だったの。だけど、それは貴方じゃない――」
紫苑が大切に思い、救いたいと願ったのは、あくまで“クロ”という黒猫だった。目の前にいるのは、クロであってクロではない。心が欠け落ちた空魔だ。紫苑が作り出した幻想に過ぎない。
「身勝手なことを言っているのは、分かってるよ。私の願いで生まれたのに、こんなこと言われて、許せないでしょ」
弟の紫陽と混じり合った歪な存在。紫苑はどうしても、最後まで認めることは出来なかった。それだけのことだった。紫苑の本音を聞いた柘榴は怒らなかった。ただ、少しだけ沈んでいるように見えた気がした。紫苑は柘榴の顔を直接見ることが出来なかった。この期に及んで、また逃げてしまうのか。
そう思ったとき、柘榴が呟く。
「……気にしなくていいよ。僕は僕で好き勝手やってきたからさ」
「柘榴……」
なんと声をかければいいのか分からなかった。ただ、名前を呼ぶことしか出来ない。それ以上、踏み込んだら今度こそ戻れないと分かっていたからだ。世界のために、自分が進むために、切り捨てなければいけないものがある。
「楽しかったよ。僕もこの世界が好き。でも一番好きなのは紫苑なんだ」
柘榴は紫苑に飛び切りの笑顔を向けた。その笑顔は紫苑の心に突き刺さる。罪悪感を拭えるわけが無かった。この痛みは絶対に捨ててはいけないものだった。紫苑は目を逸らさなかった。柘榴はそんな紫苑の心境を知ってか、知らずか言葉を続ける。
「僕の希望はいつだって紫苑だけだよ。紫苑の側にいたかった。離れたくなかった。一緒に歩きたかった。これはクロとしての本音だよ」
「そういうこと言うの、意地悪だな。紫陽みたい」
「紫陽の本音でもあるから。僕ら『紫苑が好き』っていう一点に関しては、似た者同士だから、惹かれ合ったんだ」
「……聞いているこっちが、恥ずかしくなってくるんだけど」
結局、紫苑が耐え切れずごまかすように、海の方へ視線を向けた。直球で言われると、気恥ずかしかった。柘榴はそんな紫苑の様子を見て満足そうにけらけらと、笑っていた。
「あーよかった。無反応だったら、泣くところだった」
「どうせ泣かないでしょ」
「分かんないよ? だって、世界の最後だし」
これで終わり――そう思うと何だか寂しさを覚える。これまであった出来事は、昨日のことのように思い出せるのに、不思議な感覚だった。
「で、紫苑はどう答えをくれるの?」
試すような金の双眸が紫苑を見つめていた。柘榴の力があれば、聞かずとも分かるはずなのに、それでも聞いてくる。紫苑の口から聞きたいという、真面目な思いが伝わってくる。
だからこそ、後悔しないようにはっきりと告げなくてはいけない。紫苑は深呼吸をして、柘榴へ真実を突き付けた。
「私、柘榴のこと嫌いだな」
「何となーく分かってたけど、直で言われるとキツイね」
「……最初から良い印象ないし。散々振り回して。茉莉花たちを殺したこと、許せない。でもね――」
割り切れない思いが頭の中でぐるぐる回る。エンプティとしての紫苑も、元の世界で泣いていた紫苑も全ては私だ。違う誰かではない。全部大切な思いだ。紫苑は嘘偽りのない本音を告げる。
「嫌いだけど……それでも、柘榴の存在に救われたんだよ。私の願いを叶えてくれて、ありがとう」
「……はは」
柘榴は一瞬、虚を衝かれたような顔を見せたが、すぐに元通りになった。さっぱりしているところは、少し見習いたいと心の隅で思うのだった。柘榴は砂を蹴りながら、紫苑へ問いかける。
「……殺した理由知りたい?」
紫苑は無言で頷いた。知らないまま終わるのも、後味が悪いものだった。理由があるのなら、ちゃんと知りたかった。それでも正当化されることではないのを念頭に置いて。
「話ねぇ……何から言えばいいか。奴……ミオネが言うには願いを叶えるためには、余計なものを排除する方が、精度は上がるって言うんだ。簡単に言えば、思い描く世界を作るには、生きている人間が少ない方がいいってこと。ここまでくると、もう生存者は、ほとんどいないだろうからね。後は出来るだけ、完成に近づけるだけ」
濁った水から不純物を除けば、純水になるように、様々な思いを持った人間を排除すれば、純粋な願いが残る――ミオネが語る理想の世界は、そういった形で作られるというのだ。紫苑は驚きを隠せないと同時に、罪悪感がこみ上げてくる。この世界は終わりに向かっていると言っても、様々な思いを抱いた人達が生きてきた。自分の願いのために誰かを踏みにじることに、変わりは無いのだ。
しかし、ここまで来たら、後戻りは出来ない。紫苑は柘榴の話に耳を傾ける。
「空魔になったばかりの頃にミオネから聞いた話だよ。ミオネはこの世界に、始末を付けたかったみたいだし、利害の一致ってところさ。この世界に絶望したミュオソティスを上手く動かして、この世界を破滅に導く……穴だらけの杜撰なシナリオだね」
「私がこの世界を願ったことも、仕組まれていたの?」
「それは……本当に偶然だったと思う」
この世界の終わりはミオネの計画のうちだが、紫苑がこの世界を――ミュオソティスがいる世界を望んだのは偶然だったようだ。柘榴が言うには、ミオネはミュオソティス――自身の欠片を探していたが、見つからなかったそうだ。探し続けて、立ち寄った一つがクロと紫苑がいた世界。そこで、紫苑の思いに触れたミオネが紫苑の願いを叶えようとした。
そして、紫苑が願った世界が空魔のいる世界――ミュオソティスが作り出した世界だったという。ミオネは感謝してもしきれないと、言っていたらしい。
「偶然が重なって、こうなったみたいな……?」
「大雑把に言えばそんな感じ。笑っちゃうよな」
「で、柘榴の方は思い描いた形になったの?」
「五割くらいはね。もっと紫苑と遊びたかったから、ちょい不満って感じ。エンプティに引き取られたあたりから面倒なことになったなぁ、って思ったよ。タイミングがほんの少しズレて、この世界で空魔になってさぁ、色々と大変だったよ。他の奴らに悟られないよう動くのって、難しいな」
あまり愚痴を吐かないから少し新鮮だなと、紫苑は思った。散々クロに愚痴を吐いていた紫苑はお互い様ということで、何も言わなかった。
「紆余曲折を得て、ここまで来れたのはミュオのおかげだし、まぁ多少思うところはあったけど、僕には関係ない話だからね。他の奴らもそうだ。僕ら空魔は他力本願なところもあったけど、最終的に決めるのは自分。自分で何とかしないといけないんだ」
空魔になったとしても、自由が得られるわけではない。ミュオソティスに希望を見出したとしても、道を選ぶのは自分なのだ。それがたとえ、茨の道だとしても進むしかない。
「わりとポジティブなんだね」
「原動力はマイナス感情だけどね。まぁ、空魔になった時点で終わってるから。思い出の欠片に縋っているような存在だし」
「思い出に縋るのは、人間も同じだよ。空魔も人もそんなに変わらないって、今は思う」
「かもね……」
そう呟く、柘榴の瞳は遥か遠くを見つめているようだった。どうやっても、空魔と人間の間には隔たりがある。柘榴が何を思っているか、紫苑には見えない。
終わりを惜しんでいるようにも見えるが、真意は分からない。それなら、早くケリを付けた方がいいだろう。これ以上、話を続けたとしても、思いは変わらない。
「……柘榴、夢はいつか覚めるもの。人は夢に向かって生きることが出来る、その中でずっと生きていくことは出来ない。だから――」
願うのは一つだけ。朝焼けの中で、紫苑は真っ直ぐに告げた。
「私を殺して」