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「どんな様子か少し気になるところではありますが、そっとしておきましょうか」
「空が明るくなってきたな……夜明けって感じだ」
「……はぁ」

 紫苑と柘榴の二人がどこかへ行ってしまい、残ったのはミオネ、ミュオソティス、竜胆の三人。三者三様の会話は成り立っているようで成り立たない。ミオネは勝手に喋るだけで、ミュオソティスは沈鬱な表情をしていた。
 竜胆は付き合っていられない、と言わんばかりに葵の側に座り込んでいた。葵の表情はとても安らかだった。どこか玲菜の面影を感じてしまうのは、後悔しているからだろうか。
 そもそも、親子だから似ていて当たり前だ。思わず、自嘲気味に笑ってしまった。何を感慨にふけっているのか。こうなってしまったのは、元はといえば自分のせいだというのに――それでも今は肩の荷が下りた気持ちだった。知らず知らずのうちに、背負いこんでしまっていたのだろう。

「夢を見すぎたのかな。もっと、慎ましく生きていれば、こうはならなかったのかねぇ」
「本当に、すまなかった……」

 独り言のつもりだったが、いつの間にかミュオソティスが側に来ていた。竜胆は冷たくあしらわなかった。ミュオソティスが謝罪の言葉を口にしようが、もはやどうでもよかった。玲菜も葵もいなくなって、色々な人たちに置いて行かれ、世界がおかしくなっていき、ようやく立ち止まることが出来た。自分もまた、夢の中に生きてきたことに気付いたのだ。

「……僕には玲菜が眩しかった。時折、羨ましくて、疎ましいと思ったのは事実なんだ」

 太陽のような人――だが、竜胆にとっては、明るすぎた。闇を払いのける光は、周囲の人間を焼いてしまうこともある。それでも、竜胆は光に焦がれていた。だからこそ、包み隠さず玲菜には己の秘密を打ち明けていた。玲菜は真剣に聞いてくれた。

『呪いなんて跳ねのけて、幸せになろう。私たちなら出来るよ』

 玲菜の言葉はとても心強かった。玲菜なら本当に呪いをはねのけてしまうかもしれない――竜胆の心は揺れる。
 だが、一抹の不安は拭えなかった。その不安が肥大化して、玲菜の命を奪った。心に巣くった呪いはどうやっても、しがみついて離れなかったのだ。

「間違っちゃいないのさ。僕のなかに不満があったから、ああなったんだ」

 ミュオソティスは人間の感情を操れるが、持ち合わせていない感情は作れない。善人を悪人に出来ないように――殺意を持たない人間を人殺しには出来ない。逆に言えば、少しでも疚しい心があればあっという間に術中に堕ちる。ミュオソティスにその事実を告げられた時は、言葉も出なかったが、今となってはとんだお笑い種だった。

「思っていることがあるなら、直接言えばいいのに、言わないから拗れるのですよ」
「言ったところで、伝わらないこともあるだろう」
「それは、痛い目見ないと分からない人間なので、容赦なく叩き潰すのが一番です」

 ミオネは自信満々に答えていた。そんなミオネを見て、ミュオソティスは大きなため息を吐いた。こんなのが自分の大本なのか、という嘆きだろうか。人間に憧れて生まれたのがミュオソティスだ。人間寄りの意見になるのは当たり前だった。

「何だかんだで、世界平和が一番だよ。諍いは起きない方がいいのさ」
「おや、貴方がそんな平和主義者だとは思いませんでした。あれほど、ミュオソティスと空魔に対して、憎悪を向けていたのに。エンプティやら、何やら研究まで重ねてきた貴方が言いますか」

 空魔を倒すためにやれることは何でもやってきた。非人道的行為も躊躇わずやってきた。何を考えているか分からない、不気味――など面白いくらい研究員たちに良く思われていなかったのは、知っていた。そんな些細なことなど、どうでもよかった。この世界から空魔を消すことが出来れば、何もいらなかった。止まってしまったら、何もかも終わってしまうと、知っていたのだ。

「引くに引けないから、ここまで来た感じさ。けれども、僕が思っているより、季節の流れって残酷だったよ。半分空魔のせいか、感情も中途半端になってさ。葵に酷いことしたよ。葵は空っぽになった、僕の代わりに怒っているようだった」

 最初はこびりつく呪いをどうにかしたかった。ミュオソティスに出会って、全てが狂っていった。半分空魔にされてから、苦悩は日に日に増していった。家族にも話せない秘密は心を蝕んでいく。他人を拒絶し始めていた頃、玲菜と出会った。堕ちていくしかない人生の中で最後に見た太陽だったと、このときの竜胆は思っていた。葵が生まれたのは、奇跡だったと竜胆は改めて思い返す。幸せが掴めると思った、最初で最後の時間だった。

「……幸せって、あっという間に崩れるんだよ。まわりまわって、最初に戻る。一生、光の届かない海の底から抜け出せない」

 割り切れない思いはたくさんある。ミュオソティスに対する思いは特に、憎悪の一言で済まされるようなものではなかった。ミュオソティスも、身も蓋も無い言い方をすれば、祖先に誑かされた哀れな少女だ。皆、希望を抱いて、絶望に堕とされた。誰のせいか、誰が悪いなど議論をするつもりは無かった。そんなことに意味は無いと、竜胆もミュオソティスも分かっていた。

「さて、紫苑は一体、どうするつもりなんだろうねぇ」

 出会った時の印象は、自分と似通っていると思った。大切なものを失くしてしまった虚ろな瞳。それでいて、夢と現実を彷徨っているような不安定さ。
 しかし、夢を望みながらも、月宮紫苑は痛みを伴う現実を選んだ。

「結局、人間は夢の中では生きられない。苦しい世界だ」
「夢を見ていたとしても、いつかは覚めるのです。覚めてなくてはいけないのです。そうしないと、戻れなくなってしまいますから」

 夢は叶えるものだと、誰かが言っていた。叶ってしまったらそれは夢ではなく、現実となる。夢を現実にするために、人は前に進んで生きている。
 だからこそ、夢の中で生き続けるということは、死んでいるようなものだ。ミュオソティスはずっと、夢の中で生き続けてきた。止まっていると気付かずに、居心地の良い夢の中にいた。終止符を打ったのは、紫苑と柘榴だった。

「これまで、悩みもがき続けてきた紫苑がどうするのか――私は楽しみです」
「どうしてそこまで、紫苑に固執するのさ?」
「……私も失ったものがありまして、それを探すのにかなり苦労しましてね。落とし物を探すのって、結構大変なんですよね」

 ミオネはちらりとミュオソティスを見た。竜胆はそれを見て、全てを理解した。彼女も世界で探し物をしていたのだ。自分とは比べ物にならないくらい、無限の可能性が広がる海の中で。見つけた探し物はとんでもないことをしでかしていた――そんなところだろう。ミオネは元より人に介入しない存在だ。自分の不始末は自分でケリをつけたかったのだろう。
 しかし、ミオネだけでは出来なかったという。

「彼女がいなければ、成し得なかったことです。これくらい贔屓したって、文句は言われないでしょう」
「……あるよ。僕は空魔をこの世から消し去りたかった」
「あぁそういえば、貴方の悲願でしたね。大丈夫ですよ。この世界が消えれば、空魔は全部消えますから」
「そういう問題じゃないんだよなぁ」

 自分の手でやりたかったという意味なのだが、ミオネに説いたところで無駄だろう。それよりも、ミュオソティスたちはどうなるのか。

「世界が変わったとして、君たちはどこへ行くんだ」
「どこへ行くも何も……どこにでもいて、どこにもいないだけですよ」

 漠然とした回答だったが、そう言うしかないのだろう。元より、人ではない存在なのだ。

「ミュオソティスは」
「私と一つになります。本当なら見つけた瞬間、融合しても良かったのですが、そうすると貴方が消えてしまいますから。さすがに哀れでしたので、今の今までそのままで過ごしていました」

 要らぬ同情をかけられていたようだった。竜胆がこれまで行動で来たのは、ミオネの恩情もあったという事実――何となく微妙な気分になる。ミュオソティスも同じような思いを抱いたのか、眉をひそめた。

「……どこまでも、気に障る奴だ」

 ミュオソティスは忌々しそうに吐き捨てた。二人そろって手のひらで踊らされていた――運命というものは、やはり嫌な言葉だと、竜胆は改めて思った。

「それに、紫苑には順序を踏んでもらいたかったのです。黒猫からの要望があったというのは、内緒の話です」
「あの黒猫もなかなか不思議な存在だったのさ」
「別世界の二つの魂を混ぜて作った存在ですから。それにしても、健気な黒猫ですよ。あそこまで尽くしてくれる人間……そうそういませんよ。あ、人ではありませんでしたね」

 ミオネ曰く、柘榴の行動は一貫して、紫苑のためだったという。竜胆は柘榴と少しだけ会話をしたことがあったが、人型空魔の中でも異質だったのは覚えている。見ている世界が違うと何となく思っていたが、ミオネたちの話を聞く限り、あながち間違いでもなかった。
 並行世界がこの世界と複雑に絡み合っていると聞いた時は、さすがの竜胆も驚きを隠せなかった。そもそも「空魔という化物がいる時点でおかしいのですよ。他の世界には、あんな化物はいませんから」とミオネは言ったが、空魔は定着してしまっていたから仕方がない。一旦、定着して常識となってしまえば、覆すのは難しい。
 ただ、世界が違ったとしても、共通しているのはどこへ行っても、人の業は変わらないということ。虚構に溺れ、真実を見失うことがある。竜胆は人の業の深さをしみじみと感じていた。

「面倒くさいね。人も、空魔も、猫も」
「だが、私はそんな人間が何よりも大好きだったんだ。やっと、思い出せたよ……」

 ミュオソティスが見せた美しい微笑みと輝く涙。純粋な思いが伝わってくるようだった。それを見た竜胆もつられてふっ、と笑う。

「そんじゃ、僕らも旅に出ようかね」
「まだ決まっていないのに気が早いですね」

 ミオネは遠出にはしゃぐ子どもを見るように、竜胆を見て笑っていた。心が浮足立っていることは、否定出来ない。終わりが近づいているのに悲壮感は全くなかった。ミュオソティスも、吹っ切れた様子で空を見上げている。

「決まり切っているようなものだよ。夢から覚めた子どもの行動は早いのさ。それこそ、神様もびっくりするくらいにね」

 空はもう悲しい色をしていなかった。黄昏は晴れ、朝の光は手が届きそうな場所に見えていた。