「僕は紫苑が好き」
最初に言われた時は驚いた。雷が落ちたとかそんなレベルじゃなくて、時間が止まったかのようだった。とにかく、あり得ない、からかわれているのかと思った。
生まれた時は、差が無かったけどいつからか、大きくなっていった。壁は大きくなって、どうしようもなくなって。一度ズレてしまえば元通りになるのは難しい。断絶された向こう側に柴陽はいた。その隔たりは確実に広がり、差は埋められなくなっていく。
柴陽に――弟に告白された時点で、すでに私の心は修復不能なくらい、深い傷を負っていた。どんな言葉を囁かれても、私の心は揺るがない。変えられないほどに壊れてしまっていた。柴陽が壊したのか。自分で壊したのか。どっちだろう。どっちがいい? どうでもいいか。
今の紫陽、すごく面白い顔してる。私を哀れんでいるの? くだらない。全部持っているのに、何が気に喰わないんだろうか。私が、私が――何をしたって言うの。
「哀れみからだと思ってる? それだったら、わざわざこんなこと言わない。紫苑は全然分かってないよ」
「あんたの気持ちとかどうでもいいし。分かんなくていい。構わないでよ。今更、話すことなんてないでしょ」
心の弱さをどうして、認めてくれないの。どうして、分かっていないって無責任なことを言うんだろう。私の思いは間違っていると言うの? 否定しないでよ。私の苦しい思いは、紛れもない真実なのに。誰にも理解されない思い。気付いてよ。私が避けてること、空気読んでいること、察してよ。見なかった振りしてよ。貴方は何でも出来るんだから、それくらい――分かりなさいよ。
「それでも、僕は――」
「……私は何も期待してない。父さんや母さん、あんたも……何もかも。あんたには分かんないだろうけど」
「紫苑……」
「あんたが目立てば目立つほど、私が惨めになるのよ! パッとしないね、とか同じ姉弟に見えないとか、何でいるんだろうって――そんなの知らないし!! 私何かした? 何もしてないよ!? 何かしなきゃダメなの!? 結果出せないと、私は認めてもらえない! 生きてちゃいけないの!? 努力なんて嫌い。努力したってどうにもならない。努力が足りないとか、言うやつはもっと嫌い。死ねばいいのに。してもどうにもならないことって、あるんだよ」
私は私のままでいたいのに。周りは許してくれない。誰も見ない。私に興味ない。何の価値も無いから。路肩に生える名前の無い花。生命力だけは強くて、生き汚く、泥水をすするような敗者。私に与えられた役目って、何なんだ。
「僕は、そういう紫苑が好きなんだよ。そうやって、素直になっている紫苑が一番好きだ」
「……嫌味にしか聞こえないんだけど。もう、一切話しかけないで」
その時の紫陽の顔は酷く寂しそうだった。この日以来、私たちの間にある溝は修正出来ない程、深まった。断絶の呪いは終わらずに続いていく。嫌いなのに、私の胸は苦しくなる。これでよかったと素直に思えない自分がいた。本当は分かっている。柴陽は何も悪くないって。私が自ら心を閉ざしてしまったのだ。紫陽も分かっているから、それ以上何も言わない。
私は空っぽの器。何者にもなれないなら、消えてしまいたい――そんな気持ちが強まっていたとき。
私はあの子と出会った。あの子に会ったのは、柴陽と揉めた後だった。
柴陽はあれ以降、特に話しかけてこないし、顔もほとんど合わせなかった。家にいる以上は、接触を避けられないけど、極力関わらないようにした。これでいいんだと言い聞かせて。
それでも、私の心は擦り減っていく。あっちは、何でもないようにふるまうからなおさら惨めになる。
結局、柴陽が活躍すればするほど、私が出来損ないのような感覚に陥る。柴陽の評判を聞くだけで、私は耳を塞ぎたくなる。下級生なのに、こっちにまで情報が入ってくるから、溜まったもんじゃない。紹介しろと何度言われたことか。
――うるさいんだよ。死ね。お前らなんかじゃ相手になんないよ。バーカ。
心の中で吐き捨てたとしても、収まるものじゃなかった。イライラが止まらなくて、無性に涙が溢れて、そんなもの誰かに見せられないから、私はずっと一人で帰っていた。
いつもの道は変わらない。何も言わないし、変わらなくても許してくれるから。校門の前には桜並木がある。今は季節が終わってしまっているので咲いていない。
そこからしばらく、道を行くと大きな河川敷があった。
今日は土手を降りてみた。いつもは真っ直ぐ帰るけど寄り道をしたくなった。車の音が聞こえてくる。のんびりと休んでいる人たちがいる。暢気なものだ。河川敷の上は橋があり、その橋を支えるように大きなコンクリートの柱がある。日陰になっているその場所を進んでみた。気まぐれだったと思う。気分的な問題――か。これまでも行く機会はあったけど、足を運ぶことは無かった。私は基本的に面倒なことが嫌いだ。余計なことはしたくない。怠惰なくせに、変なプライドだけはある。自分で分析して悲しくなってくる。橋の下は涼しくて、心地よかった。少し休もうと思ったら、どこからか鳴き声が聞こえてきたのだ。人の鳴き声じゃない、動物。みゃあと、弱弱しく無く生き物など、アレしか心当たりがない。
「猫……」
私が見つけたのは傷んだ段ボールの中で、みゃあみゃあ鳴いている黒猫。お腹が空いているんだろうか。生憎と今の私は何も持っていない。家へ連れて帰ることなど出来やしない。母さんは猫アレルギーだったから、絶対に無理だった。
「どうしよ」
猫の世話とかしたことないし、何をすればいいんだろうか。病院とか然るべきところへ連絡したり、連れて行ったりした方がいいんだろうけど、色々と面倒なことになりそうなのは想像ついた。この子を思うなら、それが一番なんだろうけど、私には出来なかった。
せめて、餌をやるくらいなら――そう考えて私は、近くの店で猫用の餌を買ってみた。
結果、猫は餌を食べてくれた。
「……はぁ」
餌を食べる姿を見て私はホッとした。食べなかったらどうしようかと、思っていたから。見捨てても良かった。普通だったらそうしていた。面倒なことは嫌いなのに。何でか、今日だけはそんな気持ちになれなくて。どうせ、心優しい誰かが保護してくれるだろうと思い、その間だけ――など軽く考えていた。
「貴方も大変ね。こんなところに捨てられて」
大方急な引っ越しで、引き取り手が見つからなかったとか、そんなトコだろう。真実は知らないけど。
「感謝してよね。本来はこんなことするような人間じゃないし」
猫に対して何を言っているんだろう。どうせ、言葉も分からないのに。押しつけがましく餌をやった。よほど、お腹が空いていたのか猫は警戒することも無く、餌を食べ続ける。
「いーなー君は。悩みがなさそうで、自分の置かれている状況とか把握して無さそうだし。こうやって餌をくれる人もいるし」
自分で何言ってるんだろう。猫に対して愚痴るとか終わってるよ。
「私ねぇ、何も上手くいかないんだよ。分かる? 分かんないよねぇ……はぁ」
何もしない、何も出来ない。黒猫を助けただけで、悦に浸る愚かな人間。私はそういう存在で、これからもそうやって生きていくのだろうか。