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『私には、何もないの。きっと、全部あいつに持ってかれちゃったんだ。ううん、最初から何もなかったんだ……』

 そこにいたのは”私”だった。オレンジ色に染まった、帰り道で独り泣いている”私”の姿。その目の前には掠れた声で鳴く黒猫。

『……ごめんなさい。上手く出来なくて、ごめんなさい』

 罵倒されて、辱められる”私”がいた。苦しみ、痛み、悲しみが、際限なく湧いてくる。受け入れてしまったら、楽になれただろうに。それでも、私は拒絶した。そんなことをするくらいなら、死んだ方がマシだった。

『やだ、止めてよ。こんな、苦しい……』

 越えてはいけないラインというものは、この世にあるのだろうか。そんな見えないものに、意味など無かった。

『ねぇ、お願い起きて。起きてよ。ねぇってば!!』

 物言わぬ猫――あぁ、そっか。私、あの時から失ってたんだ。最初から何も、無かった。

『あはは!! いい気味――死ね!! 死んでしまえッ! あの子の代わりにお前が死ねばよかったんだ! あはっ、あはは!!』

 互いに血塗れになりながら”私”は何してたんだろう。何を思ってたんだろう。

『やった。やった……! ねぇ、これでよかったんだよ、ね。これから、どうなる……のかな。』

 誰も答えてくれない。みんなしんでしまったから。

『もう……どうでも、いいや』

 何もかも諦めた”私”は壁にもたれた。もう、思い残すことは何も、無い――

 列車に揺れるかのような心地良い感覚――ではなく、濁流に巻き込まれているような息苦しさ。私が元々知っていた事実が、一気になだれ込んでくる。これが、私の記憶――何故だろうしっくりこない。本当に私の記憶なのか。

『紛れもなく”貴方”の記憶ですよ。正確には”表”といったほうがいいのかもしれませんが……』

 疑問に思いながら、漂っていると少女の声がどこからか、聞こえてくる。

「誰?」
『私はミオネ。少し特殊な存在です』
「……ミュオソティス――じゃなくて?」

 目の前にいる少女は、先程まで私が見ていた空魔のボスである少女、ミュオソティスそのものだった。
 しかし、少女が名乗った名前はそうではなかった。そっくりさんだが、佇まいは先程のミュオソティスより、穏やかで落ち着いていた。ミオネと名乗った少女は、はぐらかすこともなく、私の問いに答えた。

『貴方がここへ来る前に出会ったミュオソティスは、私と同一人物ですが、違うのもまた事実』
「どういうこと?」
『私とは違う世界に生きる、ミュオソティス――ということです』

 違う世界と言われても、さっぱり分からない。いきなり話が飛び過ぎて、頭に全然入ってこない。どっからどう見てもそっくりだし、何がなんやら。違うのか同一人物なのかはっきりして欲しい。

「……ちょっと待って。本当にワケが分からないんだけど」
『今は分からなくてもいいです。それより、貴方は自身の記憶を辿りに来たのではないのですか?』
「それはそうなんだけど。……というか、貴方さっき「紛れもなく私の記憶」って言ってたけど、本当なの」
『そうですよ。貴方の記憶です。本来の”貴方”が持っていた記憶――もちろん”表”があるなら、裏もありますよ』
「表、裏とかそんなの……記憶は、記憶じゃないの?」

 かなり気になる発言をするが、少女は澄ました表情で淡々と答えるだけ。事実を言っているだけなんだろうけど、説明不足が過ぎる。

『記憶は貴方が全て握っています。もう少し、精神を研ぎ澄ましてみるといいでしょう』
「そんなもので分かるの?」

 と、疑問に思いつつも、言われたのでやってみることにした。さっきは、濁流の如く流れていったけど、今回は思い返すようにゆっくりと想起していく。深い海の底まで沈んでいくように、目を背けないように――私はしばらくの間、目を瞑って流れに身を任せる。欠けたパズルのピースが埋まる様に、記憶は補完されていく。こういうのは、痛みが伴うものかと思っていたが、そうでもないようだ。暗い記憶も楽しい記憶も、全部私の一部なのだ。切り離していいはずがない。どうして、私はこのようなことをしたのだろう。記憶の波は徐々に弱まっていく。そろそろ、終わりに近づいているのか。波が静まりピースが埋まったと思い、私は目を明けた。

『真実を知って、どうするのか――黒猫と一緒に考えるといいでしょう。全て貴方にお任せします』

 顔を上げた先には冷めた表情のミオネ。彼女は一体どこまで見据えているのだろうか。こんな手の込んだ真似をしてまで、彼女はそんなにも――私の思考を遮るようにミオネは問いかける。

『記憶は取り戻せましたか?』
「え、えぇ……何というか。取り戻したのか分からないけど、不思議な感じ。自分の記憶じゃないものも、混じっているようで……」

 封じた嫌な記憶を取り戻すと思っていたから、少し拍子抜けだった。こんなものでいいのか。違和感が多少残るが、ピースは埋まった気がした。

『その記憶をどう受け取るかは、貴方次第です』

 何とも曖昧な返答だ。私が取り戻したのは自分の思いも含めた、私の記憶。何がどうなってこうなったのかは、詳しくは知らない。恐らく、ミオネは全てを知っている。
 けれども、彼女は深く語らない。どうも、語りたがらない住人が多すぎる。

「一つ聞かせて――私は……願って、ここへ来たのよね」
『貴方自身に聞いた方が一番早いのでは?』
「それは、そうなんだけど……」

 記憶を取り戻しただけで、心は追い付いていなかった。本当に過去の私はこんな世界を望んだのか。まだ、大切なことが抜けている。どうして、私はこの記憶を封じたのか――今取り戻した分では足りない気がした。記憶は苦いものもあったが、記憶を封じるほどでもないものだ。こんなの、生きていればよくあること。ごく普通のありふれた日常だった。
 それと、気になることと言えばもう一つ。補完された記憶のほとんどが弟に関するものだった。弟とは擦れ違いがあったが、そこまで悪い関係ではなかった――と、絶対にそうだったと、言い切れなかったのも少し不可解だった。そんな私の様子を見たミオネは、困ったような表情をしつつも、語りだした。

『まぁ……少しだけネタばらしをさせてもらいますと、貴方の記憶は完全ではありません。欠けた部分があります。不完全なものです』
「でしょうね。納得いかないところがあるもの」
『私としては、貴方が知りたいと願うなら全てぶちまけてしまっても、構わないのですが……』

 ミオネはその先を言うべきか、言い淀んでいるようだったが、その理由はすぐに分かった。

『生憎と私はその欠けたピース――貴方の真実を持っていませんから』
「どういうこと? 記憶は全て私が握っているって、真実を知りたければって、言ったじゃない」

 ミュオソティスは言った――が、目の前にいるのはミオネという少女。持っているのはミオネじゃなくて、ミュオソティスなのだろうか。私が疑問に思っていると、ミオネが語り始めた。

『そもそも、貴方の記憶を封じたのは貴方が願ったからではなくて、他の誰かが願ったからなんです。そうしないと貴方が壊れてしまうと思ったから、貴方は耐えられないと思ったから、切り取ったのです』
「他の誰かって――」
『まぁ、あの子に関しては色々と複雑な事情が重なって、正直私の手の届かない場所にあるので申し訳ありません。ですが悪気はないので、怒らないであげてくださいね。全ては貴方のことを思ってのことですから。貴方の記憶から痛みから悲しみまで、ずっと抱えて来たんですよ。すごいですよね』
「だから、それは誰なの」

 見当もつかない――わけではなかった。何となく、どこかで引っかかっていたものが、繋がろうとしている気がした。

『というように、仰っていますけど、どうしましょうかねぇ。えぇ……はい。分かりました。どうなるか知りませんが、了承いたしました。元より貴方はそのつもりだったんですものね』

 ミオネは誰かと喋っている。きっと私のためを思ってくれた誰かだろう。あまり実感が湧かないけど、ミオネの言い方を借りればそれしかない。

『承諾も得られたので、今度こそ全てのピースを埋められますよ。良かったですね』
「結局誰なのよ」

 分かっていたけど、聞かずにはいられなかった。はっきりと、真実を知りたかった。

『真実を掴めるかは貴方次第ですが……きっと、分かるでしょう。それに、やはりこれは貴方の手で掴むべきことでしょうから』

 人から聞かれたものを真実として受け取るか。人から聞いたとしても、私はきっと納得しないだろう。ならば自分で確かめるべきだと思った。こうやって、思い出すきっかけも与えてくれたから、そうするべきだった。

『あぁ一応、記憶を完全に戻す前に言っておきますが、今度は本当に洒落にならないほどの、地獄を見ると思いますよ。貴方にとっての最悪な悪夢、現実、過去、記憶――正気を保っていられるかは、全て貴方の心にかかっておりますので、私に文句を言わないでくださいね。貴方の記憶を封じた人のことも、ね』

 ミオネは先程までとは打って変わって、真面目な顔で忠告をした。彼女がここまで言うのだから、本当に思い出したくもない記憶であり真実なのだろう。元より、覚悟していたつもりだ。
 どんな結果になろうとも、私は受け入れるだけ。
 
 死んだら、それまでのこと。それなら、それでいいかなって――少し思ってしまう。
 しかし、呪いをかけられた私の現実は思ったよりも、厳しかった。どう足掻いても、逃げられないようになっていたのだった。