私は逃げた。誰も私を知らない場所へ行きたかった。死んでも構わなかった。
この現実から、この記憶から、この運命から、この世界から――
『お前が殺したんだろッ!! クズ!! 人でなし!! 化物がッ!!』
あれは、逢魔が時……黄昏時だっただろうか。視界は橙色と赤色に染まっていた。
『それだけ持っていても、足りないって言うのッ!? 私から全て奪うのかぁッ! お前は、おまえは…………』
小さな幸せがそこにあった。守りたいものがあった――と言えば聞こえがいいか。実のところ自分でもよく分かっていない。どうしてあんなことをしたのか。何か言っていたような気がしたけど、私は聞こえない振りをした。何も聞かなかったことにした。
『ねぇ、返事してよ。クロ、ねぇってば、クロ。死んでいないよね……?』
箱の中にいる猫は死んでいるか、生きているか――どっちでも結果はきっと、変わらない。もう決まってしまっているのだから。それでも、私は箱を開けられなかった。どうしてあの時、開けなかったのか。
理由は単純かつ明解――あまりにも幼稚過ぎた。
『それ』を、開けてしまったら、全て終わるから。開けて確認した方がまだ良かっただろう。もしかすると、病院へ連れて行ったら、助かる見込みもあったかもしれない。
でも、私は何もしなかった。箱を開けることを拒絶した。
自分の都合で全て、封じてしまった。傷つきたくないから、現実を見たくないから、記憶に残したくないから――
ありとあらゆる可能性を全て封じた。
私は何も知らない。
私は何も見てない。
何も起きていない。
傍らに転がっている死体は、ただただ私を嘲笑う。愚者を見るように、私を嗤っている――そんな気がした。
私は馬鹿だよ。貴方が思っているよりも、すごい馬鹿。知ってるでしょ。私をずっと側で見て来たなら、それくらい分かりなさいよ。私の××でしょう。
私は願いました。とても強く、そこにいた少女に願いました。彼女は私の願いを聞き入れてくれました。私の行いが正当化される世界に――心の弱さが、正当化される世界で、私は。
「あああ゛ああアああ゛ああ゛ああ゛ああアああアア゛ああッ」
身を裂くような、痛み。全身が焼けるほどに熱く、頭は何かに弄られているように痛く、抑えても、もがいても意味は無い。痛みが全身を走り抜けていた。そこに快感などはなく、ただの罰でしかなかった。これは戒めなんだ。愚かな私への、私の罰。痛みを押し付けて、私は痛みを無いことを気にして――とんだ茶番劇だ。狂っているんだ。全て私がおかしい。世界じゃない。
私が全て、おかしいの。ずっと夢に見るんです。あの時の悪夢を。私の願いが、全て壊したんです――この世界の何もかもを狂わせてしまった。
「どういうこと、これは……」
目の前にいる紫苑は劈くような声を上げながら、うずくまっていた。ミュオソティスの方を見ると、何故かミュオソティスも苦しんでいるようだった。アヤメにはその理屈が分からない。アヤメ自身は何ともないが、ミュオソティスにはダメージが来ているようだった。あくまで心を反映する鏡であってアヤメとミュオソティスは痛みを共有しているわけではない。
「副作用みたいなものだ。問題無いよ」
その中でも柘榴だけは冷静だった。まるで、こうなることが分かっていたかのように、顔色一つ変えなかった。酷く冷たく思えたが、紫苑を信じているようにも見える。
「……私は貴方より長く生きているし、この世界についても知っていることは多い。それでも、今の状況に違和感がある。何というか……得体の知れない何かかが入り込んでいるような」
「違和感があるというのは当たっているし、上出来と言いたいところだけど、まだ一歩足りない。理解の外の話」
アヤメの抱いていた違和感は間違っていない、と柘榴は言う。だが、正確ではないらしい。当たり前だ。アヤメはあくまで、ただの空魔。ミュオソティスを守る存在、余計なことは知らなくてもよかった。はずなのに――知らなくてはいけないと思ってしまった。ミュオソティスの害になりそうなものは徹底的に排除すべきなのに。
「君の抱いている違和感が、きっとミュオソティスの夢を壊すものかもしれないから、迷っているんだろ」
「やはり、私の勘は当たっているのね。どうしようもなく、嫌な予感しかしないの」
「けど君は一方で、このままじゃ駄目だって思ってる。夢は続かない、永遠は存在しないって――彼女が望んでいても終わりは必ずやってくるって」
ミュオソティスが作ったワスレナのユリカゴ――この世界は不安定だ。彼女が外界と、関りを断つために創ったという世界。終わらせたいと願うなら、そのまま朽ち果ててもよかったのに、何故こんな世界を作ったのか。彼女は今でも淡い夢物語を信じているからに他ならない――とうの昔に終わってしまったはずの物語の続きを、待っているのだ。少女は独り閉じた世界で絶対に叶う事の無い夢を見ていた。
アヤメはそんなミュオソティスをずっと側で見守っていた。ミュオソティスが望むのなら、余計な口出しはしなかった。そもそも、彼女の心から作られた存在であるアヤメが口を出せるはずも無かった。
「私は、ミュオの意思を尊重するだけよ……いつだって」
絞り出した回答は上辺だけの虚しいものだった。本当は柘榴の言う通り、このまま停滞していては、駄目だと分かっていた。それに他ならぬ、ミュオソティスが進もうと思っているのだから。
ミュオソティスの心から作られた、アヤメはミュオソティスの鏡のようなもの。アヤメが感じていることは、少なからずミュオソティスが抱いている感情である。当の本人は無自覚だが、アヤメにはごまかせない。彼女の思いが、アヤメに流れ込んで感応する。
ミュオソティスはずっと、このままでいいのか迷っていた。この世界に閉じこもっていいのか、これで正しいのか――彼女は明確な答えを出せずにいた。この世界を出れば、嫌でも真実を突き付けられると、知っているから。
「そうは言っても、今のミュオソティスが正常に何か考えられると思う? あのザマだよ。紫苑が真実を手にしたから、彼女はショックを受けた」
「やはり、そうなのね」
思えば、ミュオソティスは紫苑が記憶を取り戻すことに消極的だった。きっと、全てが自分に返ってくる刃のようなモノだったからだろう。紫苑に厳しい言葉を投げておいて、自分はずっと現実から目を逸らし続けているのだ。昔から、今でも――この先もずっと。
「僕としては、ミュオソティスがこのままでもいいんだけどさぁ。でも、助けてもらった恩義はあるから、紫苑が良いって言えば、協力してやってもいい。元よりそういう契約だし。もちろんミュオソティスの心である、君にもね」
「そういえば、さっきから紫苑、紫苑……って言っているけど。紫苑さんは一体何なの? 彼女は普通の人間じゃないの? 貴方が、彼女の記憶に関わっているのはミュオから聞いていたけど……」
「彼女は人間だよ。ちょっと変な人間。浮いてて、ズレてる。あまり口には出さないけど、色々考えている。愚痴が多くて、要領が悪いんだよ」
柘榴から紡がれる紫苑の印象は決していいものではなかった。呆れているようにも思えた。
けれど、裏を返せば欠点はよく見ているからこそ分かることだ。
「……貴方にとって、大事な子なのね」
「人間ってそう捉えるの? それとも、アヤメ自身の感想?」
「さっき、紫苑さんのことを語っていた貴方の表情、鏡で見せてあげたいくらい」
「そんな変な顔してた?」
「変って言うか、楽しそうだったわ。笑っちゃうくらい」
無自覚な態度に思わずアヤメは苦笑してしまう。どうやら、柘榴は自分の感情には疎いようだった。元がアヤメと同じ人ではない空魔だから、というのもあるだろう。
「まぁいいや。話を戻すけど。とりあえず、出来る限りは協力するよ」
「そうしてくれるとありがたいわ。余計なことをしないのが、一番だけど」
世界はきっと、空魔に飲まれている。これが、ミュオソティスが望んだ世界なのか――それだけは本当に分からなかった。ただ、このままではいけないと、心は叫んでいる。どうにかしなくてはいけないと、分かっていながらもずっと進めなかった。このチャンスを逃したら、きっともう未来は無いだろう。アヤメの答えは決まっていた。全ての始まりに決着を付ける時が来たのだ。先延ばしにし続けたツケを払うしかない。
それが、ミュオソティスにとって、よくないものであっても――
「全く、どいつもこいつも、まとまりが無くて最悪よ。自分勝手で、人のことなんて全く考えないし……」
「空魔だしね。元々身勝手な集団だろ」
「そうだったわね。空魔は本能で生きる存在。心の赴くままに動く現象――自分の感情を、願いを確かめるための……いいや。意味なんて無いのよ。本当は……全て、元はミュオが捨て去りたかったものなんだから」
空魔の成り立ちはかなり昔にさかのぼる。きっかけはミュオソティスが切り離した感情。それが空魔の正体であり、原型である。アヤメはその中の一つで、空魔の始まりとも言える存在だ。作られてからずっと、ミュオソティスの側で彼女を見守ってきた。数えきれないほどの人間の心を喰らって、同族を増やしてきた。人間の負の感情は、いつの時代も尽きることは無い。人間が人間でいる限りずっと、付きまとってくる。空魔にとっては、楽園のようなものだ。
それもこれも、ミュオソティスがそうあるように望んだ結果だ。
「そのおかげで色んな奇跡が起きたし、僕としてはミュオソティスさまさまだよ」
「本来ならば、あり得ないことが起こっている……全く持ってその通りだわ」
空魔は基本的に害をなす存在だ。
しかし、こういう世界だからこそ、伝えられなかったことを伝えられた人間もいる。特に負の感情など、思っていても伝えられないことが多い。そういうものを空魔は具現化していると言える。
「それにしてもいいよね……ここは。心の弱さを空魔という存在が、承認してくれるんだから。弱者には居心地のいい世界だよ」
柘榴はどこか羨むように、呆然とするミュオソティスを見つめていた。アヤメはよく分からなかったが、今更何を言っているのだろうと思った。
「別に、承認も何も無いでしょ。普通の世界じゃない」
「そうなんだけど。改めて思っただけ。そういや、紫苑は戻ってこれたかな」
そう言って、柘榴は紫苑の下に駆け寄っていった。柘榴の残した言葉は、アヤメが抱いた違和感へ拍車をかける。間違いなく、秘密を握っている柘榴。
だが、決して明かそうとしない。きっと、知ってしまったら、戻れないものだろう。不思議とそんな気がしたのだった。