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 作戦室から出て行く当てもなく、とぼとぼと歩き続けていました。私にもまだあんな感情があったのですね。人のことを笑うことなど出来ません。けど、この感情は一体何というのでしょう。誰か、教えてはくれませんかね。憎しみと失望の混じった、どろどろとしていて、でも捨てたいとは思えない感情。灰色の世界が私の目に映ったとき――

「榠樝!」

 背後から私を呼ぶ声が聞こえてきます。振り向こうか悩みましたが、結局振り向きはせず黙って立ち止まりました。

「追いかけてこなくてもよかったのに。これでも、割と気にしているんですよ。私が悪かったです。では、これで……」
「僕は気にしてないさ。僕も若干調子に乗ってたところもあるからさ」

 気にしていないとは言っても、あの時の所長は間違いなく本心を吐露していたように見えました。これ以上、話したらおかしくなりそうです。

「そうですか、それじゃあ」
「……怒っているのかい」
「どうでしょうね。怒っている……のでしょうか」
「分からないのかい?」
「えぇ。作戦室での貴方の態度を見て、私は私が分からなくなりましたよ」

 怒っているという指摘はあながち間違いでもないのでしょう。けれども、その一言で片づけられるほど、単純なものであはありません。一瞬だけ、怒りの感情は湧いたのですがその後は何とも言えない虚無感に襲われたのです。

「人の気持ちは複雑怪奇だからね。僕には今の榠樝の気持ちが分かるけど、榠樝は知りたいとは思わないだろう」
「そうですね。貴方の口から私の気持ちを解説されたくありません」

 聞いても、きっと認められない感情な気がします。思わず空魔化してしまいそうなくらい。だったら、もう耳を貸さなくてもいいでしょう。貴方はいつも独りで歩き続けていたのです。私のことなど、今更気にしてどうするのでしょう。

「私はこれからどうすればいいのでしょう」
「何もせずに、見守ってくれたらそれでいいのさ」
「……何もしないで?」
「今の最善はそれだね。何もしなければ、苦しまず誰かが終わらせてくれる……それだけのことさ」

 本当にそれで世界は変わるのでしょうか。何もせず安全圏から眺めたところで、世界は色づいて見えるのでしょうか。彼女の愛した世界が汚染されていくのを黙って見ていることなど、出来るはずがない。誰かに期待しても、世界は変えられない。

「苦しまない、ですか。何もしてない貴方はずっと苦しんでいるようですが?」
「空魔を排除したいと思う気持ちは変わっていない。彼女――ミュオソティスも含めて。必ず、消すさ。消せば僕の傷は癒える」
「当たり前ですよ。諸悪の根源なんでしょう。でも……」

 ミュオソティス――この世界を蝕み続ける、偽りの神。夢の中に漂う無垢で邪悪な子ども。私は実際に見たことは無い。想像でしかないけれど、とても往生際の悪い我儘なお姫様。所長が『彼女』と呼称する辺り、女なのでしょう。ミュオソティスは空魔を生み出しているとされている存在。これを倒せば全てが終わると、所長は言っているのですが、果たしてどこまで本当なのでしょうか。そもそも真か偽か以前に、所長はミュオソティスの存在を知りつつも手を出せていない状態。
 それもこれも――

「貴方には殺せないんでしたっけ? それでどうやって解決するおつもりで?」

 私は所長に冷ややかな目を向けました。所長は以前に『自分には殺せない』と言っていました。理由は分かりません。この人がこう言うのなら、そうなのでしょう。私は所長から教えられること以上を知ることは出来ないのですから。貴方はいつだってそう。肝心なことは教えてはくれません。
 あぁ、何となく私の今の気持ち分かってきました。これからどうするべきか。答えは自然と決まっていました。

「……時間が必要なんだ。もうすぐだ。そうしたら全てが解決する」
「時間なんて悠長なことを言っている場合ですか。それに解決しても、玲菜は戻って来ない。貴方が最初に言ったでしょう。世界を変えるのは自分自身だと。所長が何もしないなら……そのまま見ているつもりなら、私が動くまで」

 失ったものが戻るなら、どれほどいいか。けれども、現実はそうはいかない。綺麗事は綺麗事。夢は必ずしも叶うことが無い。真実は覆せない。玲菜がいなくなってしまったのは、変えられない真実で、背いてはいけない現実。

「……何するつもりさ」
「心でも見ればいいでしょう」

 私の心でも見たのか――いや、見なくても分かるのでしょう。所長は困ったように笑っていました。やはり、貴方は私を馬鹿だと、愚かだと思うのでしょうね。分かっていますよ。自分がどれだけ無謀なことをしようとしているか。空魔を倒そうだなんて、夢物語みたいなこと。貴方は認めてはくれないでしょう。

「君にはあまり伝わっていないかもしれないけど、これでも本気で心配しているんだよ。友としてね。だから、もう一度言っておくけど、止めておいた方がいい。何かしようとする心意気は立派だけど、分が悪すぎる。空魔は正攻法じゃどうにもならない相手だ」
「分かっていますよ。そんなこと」
「玲菜も榠樝が死ぬより、生きてくれた方がいいと思うだろうけど」
「彼女の気持ちを勝手に語らないでください。腹立たしい」
「……ごめん。今のは僕が悪かった」

 珍しく素直に謝る所長が気になって、思わず振り返っていました。貴方はあの時から何一つ変わってないのですね。一体、玲菜はこの人のどこが良かったのでしょう。未だに話されても納得いきません。

「とにかく、私は何を言われようと、曲げるつもりはありませんよ。このイライラ――そうでもしないと、解消出来そうにありませんから」
「……これ以上、言っても無粋か。僕は無事でいることを願うしか出来ないのさ。さっきの情報を駆使して頑張ってくれよ」
「エールとして受け取っておきますね。それじゃあ」
「あぁ、あと一つ言い忘れてたのさ」

 とても重要なことだと言うように、所長は真っ直ぐな瞳で私に語りかけました

「あまり他人に期待するなとは言ったけど、頼るなとは言ってない。覚えていて欲しいのさ」

 そう言って所長は、来た道を引き返していきました。止めるつもりが無いのは分かりましたが、その後の言葉が私にはあまりにも衝撃的でした。なんだか、頭を鈍器で殴られたような感覚です。

「……よりにもよって、貴方が言うのですか」

 期待――私は所長に期待していたのです。希望を抱いていたのです。彼女がいなくなった今、所長しか本当の私を知らないんですもの。灰色の世界を見ていた私の存在を知っているのは所長しかいない。私は期待してついてきて、空魔研究に携わっていたのです。この世界を濁している空魔を倒すために、所長は邁進し続けていた。でも、あのとき所長は心無い口調で「こんな世界未練も無い」と言い放った。私はそのとき憎しみ、失望と共に裏切られたという気持ちがあったのです。信じていたのですよ。貴方はどんなときでも前を見続ける人だと。
 結局は私が勝手にそう思い込んでいただけの話。貴方は誰にも期待していないし、自分の世界しか見えていない。多くは語らず、場を混乱させるばかり。そりゃ信用もされませんって。どんなに追いかけても、独りで遠くまで、手の届かない場所まで行ってしまうのですから。

「貴方は結局、全てを話してはくれませんでしたね」

 貴方はどこまで読んでいたのでしょうか。本当は貴方に言いたかったのですよ。もっと周りを頼って――彼女の言葉を聞いて――なんて、もう貴方にはどんな言葉も届かないでしょうけれど。