思わぬ客が飛び込んできて何もかもご破算だ。そうなったのも、巡り合わせと言うのか、笑わせてくれる。
「柘榴の言う通り、もたもたしているから悪いんだろうな。俺、なにやってんだろ……なぁ」
手元にあるハーツに語り掛けても、もちろん反応は返ってこない。部屋に残ったのは、空っぽな空魔一匹。この部屋はそもそも、幻で現実には存在しない。秘密を語るだけの場所。空魔としての力でそういうことが出来るようで、核――人で言うなら心と密接につながっているらしい。空魔に感情は存在しないというが、厳密に言えば違う。空魔には僅かながら本能や願望といったものが存在していた。何もないわけではない。空魔になった結果、願望などが顕著になるのだ。
「……心を見ることが出来ても、理解は出来ない、か。俺は彼女じゃないから、当たり前なんだけど。面倒だな、心って」
事実として捉えることは出来ても、理解出来るかは本人次第だ。真実さえ見たら全てが分かるなんてことはない。相手がこの世からいなくなってしまったら、一生真実は闇の中。他人が考えたところで正解は出ない。それを知るために、空魔になったはずなのに、何を間違えたのだろう。明らかに、致命的なミスを犯した気がしてならない。
『人の心は簡単じゃない』
茉莉花の言葉が漣のように、押し寄せる。以前にも同じことを言った人間がいた――その人間はもうこの世界には生きていない。正確には近くにいるが、黙したまま何も語らず眠っている。
何故、彼女はあんな風になってしまったのか――今でもこんなにも狂おしく思うのに、どうして今の今まで気づかなかったのか。深く考えたことは無かったが、深層に潜ってみることにした。自分を顧みることはあまりなかったので不思議な気持ちだ。
蘇芳の人生は他人から、あるいは神様からすれば恵まれている部類だと言われるだろう。
けれども、蘇芳自身そうは思わなかった。充実からはほど遠く、最初からすでに失われた人生だった。学生時代は、挨拶のような軽いノリで異性と付き合ってきた。二股になろうが、三股になろうが気にしなかった。愛されるのが好きだったから。一人より二人、ないよりはある方がいい――歪んだ考えではあるものの、表立って否定出来る人間はあまりいない。
交友関係もそうだった。慕われるのは悪くないし、嫌われるよりはいいと思ったから分け隔てなく接していた。他人のことにそれほど興味なかったからというよりは、深く考えていなかったというのもある。
異性も同性も含めた中でも、一緒にいて楽なのは柊だった。小学校の頃、他の子とは何か違うと思って話しかけたのがきっかけだ。
柊は興味のないことには無関心――というよりは、物事にあまり首を突っ込むことをしない。かといって、浮いているわけでもない。基本的に柊は調和を求めており、何があってものらりくらりと交わし、思うところがあっても何も言わない。
きっと、踏み込むことで壊れることを恐れているのだろう。そういうところも含めて気に入っていたのというのはある。深入りせず、徹底的に傍観者として見続ける柊なりの優しさと言うべきか、とにかく心地がよかった。少なくとも蘇芳は、柊が何も言わないことをいいことに甘えていたところがあった。
そんな蘇芳の空虚な人生に転機が訪れたのは、高校に入って彼女――姫井祀莉に出会ってからだ。
初めて祀莉を見た時の印象は、美人だなぁくらいにしか思ってなかった。自分が真面目な人間だったら遠巻きに眺めているだけで終わっていただろう。何の縁もなく、クラスメイトの一部として、記憶の片隅から消えていくはずだった。今となっては、その方が良かったのではないかと思ってしまう。だからといって、祀莉と縁を持ってしまったことを悔やんではいない。彼女との出会いは、間違いなく蘇芳にとって良いものだったから。
「ねぇ、ちょっと話があるんだけど」
彼女と初めて話したのは一年の終わり頃だった。呼び出された自分は内心ドキドキしていた。彼女とは何の接点もないだろうと思っていたから、少し浮足立ってしまった。今思えば本当に馬鹿らしい。
結果から言えば呼び出されたのは、自分の素行についてだった。蘇芳の所業は中学時代の同級生達から噂されており、この時すでに外で関係をつくる方が多かった。悪目立ちしている自覚はあったが、それでも寄ってくる人はいるし、人って不思議だなぁ、と思っていた。そのような中で彼女だけは直接文句を言いに来た。
しかも、彼女が自身傷ついているわけでもないのに、友達のために来たと言っていた。彼女は見た目の柔らかな印象とは異なり、実際は気高く曲がったことが許せない性質のようだった。ただ、罵倒されるだけなら慣れていたけれど、自分のどこか駄目なのかを徹底的に解説し始めたのだ。笑いそうになったが、真面目に聞くことにした。
けれども、説教されて変われる人間がどれくらいいるのだろうか。長年染みついた、癖のようなものだし無理かもと、揶揄うと彼女は意気揚々と宣戦布告した。
「その都度私が締め上げるから。覚えときなさい」
面白いことになってきたと、ワクワクしながらその後も普通に色んな女の子と付き合った。今あるものを捨てたくないのは当然のことだった。
そんなことをしていたら、本当に物理的に締め上げてきたものだから滅茶苦茶驚いた。この辺りから面白さよりも面倒くささが勝ってきたので、自ら別れを切り出して持っていた関係はすっぱりと断った。すんなりいくわけもなく揉めに揉めたりしたけれど、今まであった関係はきれいさっぱりなくなった。白紙に戻したことを彼女に告げたら、どこか複雑そうな表情をしていた。思い通りの結果になったはずだろうに、何が不服なのだろう。祀莉は素朴な疑問をぶつけるように自分に問いかける。
「何でそんなに女子が好きなの?」
「女の子が好きっていうよりは、好かれるのが好きかな」
「へーそうなんだぁ……はぁ。聞いた私が馬鹿だった」
彼女は合点が行ったようだが、同時に諦めに似た憂いを纏っていた。この時、蘇芳には祀莉との間にある越えられない壁や埋められない溝が見えた気がしたのだ。
「だってさぁ。嫌われるよりは、色んな人に愛される方がよくない?」
「言いたいことは分かるけど。何だろうな……こう……ううん。何でもない」
何気なく呟いた言葉だった。
けれども、彼女は少し考え込んでいた。まるで、自分を分析しているようだった。図らずもその予想は当たることになる。
「思ったんだけど……蘇芳君って大体受け身だよね。自分から好きになった人っていないの?」
彼女の言いたいことが一瞬だけ分からなくなった。受け身であるつもりは全然なかった。相手から来るから応じているだけであって深く考えたことは無かった。そう言われると、確かに客観的に見れば蘇芳の態度は受け身だろう。ただ、それは重要なことなのだろうか。蘇芳には分からなかった。
自分が好きになった人――たくさんの経験をしながらも、何も思い浮かんでこない。色んな人と付き合ったけれど、その人自身が好きだったかと言えば微妙だ。別れる時も別に辛いとは思わなかった。相手から別れを切り出されても、何の感慨も無かった。嫌われるよりは好かれる方がいいと言ったが、そんなのは関係なかった。何の感情も抱いていなかったのだから――答えに詰まっていると、彼女は大きくため息をついた。
「……その様子だと、いなさそうだね。いたら、今頃こうなってないか」
祀莉はどこか寂しそうな声音で呟いた。蘇芳の沈黙は、祀莉にとってどのような意味を持っていたのか。この時、祀莉の心はどんな色をしていたのだろう――あんな話をしたから、ふと考えてしまった。知らなければ、気付かなければ、幸せだったかもしれないのに――
思い返してみれば付き合ってきた女子を心から好きだと思ったことは無い。断言出来る。求められたから、応じただけ。無意識というより、呼吸に近いものかもしれない。どうしてこんな風になったのだろうか――蘇芳は静かに考えた。
こういうのは大抵育った環境に影響されるだろう。流し見した心理学の本でも、切っても切り離せない関係みたいな書かれ方をしていたと思う。
蘇芳の両親は、それぞれ愛人を持っていた。夫婦仲は悪いを通り越して、虚無だった。家庭が機能を果たしていない状態だった。蘇芳は二人兄弟だった。上の兄は母にとても可愛がられていた。父はよく分からない。あまり家にいないから空気みたいなものだと思っていた。そんな自分は間違って生まれてしまったような存在だった。最初の頃はそれなりに世話してくれたけど、だんだんと放置されていった。父は自分に興味ないし、母も自分に興味はなかったようで、両者とも親として最低限のことしかやらなくなった。幸いにも金がたくさんある家だったので、不自由することは無かった。不自由は無かったけれど、愛という言葉はここに存在しなかった。それだけのことだった。何しようが自由で不干渉。不祥事を起こそうが、金で解決出来る環境にあった。兄は母に愛されても、返そうという気はなかったらしく、大学に進学して就職して消えてしまった。母はその後荒れたものの、しばらくしたら何事も無かったかのように、愛人と付き合ったり別れたりしていた。父も変わらず、自分はその光景を当たり前のように眺めていた。
この家に真実という言葉はあったのだろうか――親に対しては、不自由なく育ててくれたことに感謝はしているけれど、それ以上の感情は湧かない。恨んでもいないし、彼らがどうなろうとも気にしないし、彼らの方も自分が死んでとしても、気にしないだろう。
自分の家族の在り方が他とは違うのは薄々気づいていた。別に悪いことではないのならいいのではないから気にしなかった。法で裁かれることもないし、悪いことではないと自然に思っていた。一方で、その形は一般的には忌避されるものだということも分かっていた。街中で愛を育んでいる連中を見るたびに、自分がどれほど空っぽなのかを、満たされていないのかを思い知らされる。理由も分かっている以上、この世界で生きている自分が虚しく思えた。
隙間を埋めたいから、色んな人と付き合って、別れて、受け入れて、拒絶されて、言葉をかけて、かけられて――自分が求める真実をただひたすらに、追い求め続けた。祀莉に興味を抱いたのは、唯一真っ直ぐに見てくれたからだろうか。
関係も漂白されて、比較的穏やかな学生生活を送っていた頃――事件は起きた。
祀莉の友人が事故に会って亡くなったらしい。その頃から彼女の様子が少し変わったような気がした。周りにいる友人は気づいているのか分からない。蘇芳と話しているときもどこか落ち着かない様子だった。祀莉はやたらと視線を気にしてており、何かに怯えているような目をしていた。理由は分からない。友人の死が関係しているのかと思い、首を突っ込まないでいたのだが、空魔の存在を認知したのは図らずもこの時であった。
きっかけは柊が祀莉から話があると声をかけられて、気になってついていったところから始まる。ついていった時、祀莉は気にしていなかった、というよりは眼中になかったのだと思う。柊と聞いた話は、彼女の友人の死についての真相だった。何でも友人は目の前で化物になってしまったという。話を聞いていた柊は深刻そうな顔で何かを呟いた。何を言ったのかは、はっきりと聞こえなかったが、間違いなく柊は何かを知っているようだった。柊の呟きを聞き逃さなかった祀莉は、荒々しく柊の肩を掴んだ。柊も大層驚いたことだろう。柊に何を言ったのかと聞けば、彼が呟いたのは『空魔』という単語だった。蘇芳には聞きなじみのない言葉で、字面だけ取れば悪魔の一種かと思ったし、そんなものいるわけがないと思っていた。
けれども、祀莉は空魔の存在を信じているようで、詳しく知っている人に会いたかったそうだ。かなり調べたそうで、空魔の研究サイトに載っていた写真に柊らしき人物がいたらしく、意を決して聞いてみたらしい。そんなことやっていたんだと、蘇芳は内心引いたが口には出さなかった。
ちょっとだけ興味が湧いたので、空魔について色々聞いた。あまり世間では知られていないらしい。未知の生物で、夜に見やすいとか。柊が熱く説明していたけど、しばらく聞いたら飽きてきた。
とにかく、話をまとめると祀莉の友人は事故ではなく目の前で空魔になってしまった。その時に空魔を研究している機関に助けられたらしい。ただ、彼女の様子を見る限り、助かって安心しているようには見えなかった。それどころか、逆に追い詰められているような気がしてならなかった。
祀莉は空魔について知りたいらしく、柊と話をするようになっていった。一人だけ蚊帳の外というのも癪なので興味はなかったけれど、話に混ざることにした。この頃の関係は穏やかなものだったと思う。友達として祀莉と遊びに行ったりするくらいになって、彼女の妹とも親しくなっていった。妹の方は恥ずかしがり屋だが、姉に似て気の強い一面もあった。何も変わらないまま、この状態が続けばよかったと、思っていた。
時は流れて大学に進学というところで、進路は別れるかと思ったのだが、二人は空魔の研究をしたいようで、星影系列の大学に進学した。この大学は空魔の研究をしており学科もあるのだが、普通の生徒は気づかないように仕組まれており、選ばれた人間しか入れないとの噂だった。実際に情報を集めてみたが、そんなものがあったのかとか、初めて聞いたと答える人が多かった。高校の先生ですら知らないのだから、きな臭い。色々な噂を聞いても、二人は進路を変えるつもりは無かった。
蘇芳は二人がいくなら行ってみようかなぁ、と軽い気持ちで受けてみたら受かってしまった。受かるつもりは無かったので、大層驚いた。
思えばここから、全てがおかしくなっていったような気がする。
他の所を受けるのも面倒なのでそのまま、入ってみたらかなり特殊な学部だった。最初に適性検査みたいなのを受けさせられて、空魔について徹底的に叩き込まれ、地獄の特訓を受けて、そのまま実践という形で空魔を退治していった。今思えばおかしすぎる大学生活だった。二人はというと空魔について普通に学んでいた。蘇芳は実習をやらされるばかりで、その辺りから明らかに普通の大学とは違うと違和感を覚え始めた。
ただ、二人と全く会わないということは無く、話すことは多かった。二人は空魔を見ることが少ないので、目をキラキラさせながら自分の話を楽しそうに聞いていた。祀莉は可愛かったが、柊は少しキモかったと蘇芳は内心思っていた。大学生活は色々あったが楽しかった。空魔という存在は奇妙だけれど、惹かれる部分もあった。何故かはその時分からなかったけれど、今なら分かる。あれは自分を解放した結果なんだと。闇の中にいるはずなのに強く輝いて見えるのだ。空魔について詳しくなり、その後は大学を卒業して、空魔研究所に就職した。
第一印象は、研究所内から漂う空気に重苦しさや狭苦しさを感じていた。後で孤児院や実験場も兼ねていることを知って納得した。ここは箱庭なんだと。蘇芳もその一部になってしまったのだと、気づいた時には遅かった。
所長の星影竜胆は読めない人物だった。嘘か本当かという話ではなく、全ての言葉が空っぽに聞こえてきた。他の人間がどう思っているのか知らないけれど、蘇芳が抱いた印象はそんなものだった。蘇芳は実働部隊だったので、ほとんど話すことは無かった。柊や彼女は研究職のせいか関わることがあったらしい。少し心配になったが、ぱっと見た感じでは問題なさそうだった。
きっと、これまでと変わらない日が続くと思っていた。信じていた。
けれど、それは大きな間違いだった。永遠に変わらないものなど存在しない。毎日同じ時間を過ごしているわけではないのだから、当たり前のことだ。大きな流れには逆らえない。いつか、祀莉とした会話を思い出す。
「私は運命ってあると思うな。蘇芳君と出会ったのだって一種の運命だと思うんだ」
「……俺は全て決められているように聞こえるから、あまり好きじゃないな」
運命的な出会い――確かにそうかもしれない。
けれども、運命という言葉で一括りにされてしまうと、悩んでいるのが馬鹿馬鹿しくなってしまう。最初から決まっているのなら、何を考えたって無駄じゃないかと思ってしまう。自分があんな環境に置かれていたのも、彼女に出会ったことも運命だと言うのなら、ただの当てつけにしか思えなかった。
真実を知りたい蘇芳に対する、答えだと言わんばかりに――
空魔になったのが、最良の選択だったのか、間違いなのかは今でも分からない。ただ、空魔になったこと自体は後悔していない。
少なくとも勿忘草の少女に会って、空魔になってようやく自覚したのだ。自らの真実を――心を。
「墓を荒らした気分はどうだ?」
「……最悪だよ。知らなければよかったことってあるんだなって」
「意外と冷静だな」
「何もかも通り過ぎた後だし。それに人じゃなくなったから、っていうのもあるな」
「それで、お前はこれからどうするつもりだ?」
「君の言うことを聞くしかないんだろ? あいつへの裏切りにはなるけど、仕方ないことだ。言ったところで理解されやしない」
「それもそうだが。彼女の秘密はどうする? もしかすると、再びお前のように暴きにくる輩がいるかもしれないぞ」
少女は自分を試すように問いかける。君には全てが見えているんだろう。分かっていて聞いているのだろう。
「その時はその時。墓を荒らす狼藉者は手厚く地獄に引きずり込んでやるよ」
この邂逅が蘇芳にとっての始まりで、終わりだった。思い返してみれば、色々とあった人生だ。最終的には恵まれていたと思わせてくれるくらいには、マシかもしれない。
だが、犯した罪はどうにも出来ない。罪には報いが必ずやってくる。
「顧みたところで、自分の駄目さが際立つだけだな。さて、どうっすっか……」
望み通り真実を手に入れるか、何も手に入らず惨めに死ぬか――どちらに転がるのかは神のみぞ知る。