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「何だ、この空は」

 柊が空の異変を聞いて、駆け付けたのは茉莉花がいなくなってから、しばらくした後だった。外に出てみれば空が夕焼け色に染まっているではないか。景色こそ美しいものだったが、現実を見ればそんな生易しいものではない。空魔も蔓延っている状態で、さらにこの空の色ときた。まだ朝の時間帯のはず――それどころか世界が終わってしまうのかと勘ぐってしまうほどだった。この場にいない茉莉花へ連絡を入れたが、彼女が出ることは無かった。その結果が、さらに不吉な予感を呼び起こす。

「……冗談じゃねぇぞ」

 苛立ちが募るばかりだった。世界がおかしくなっても、スマホの時計は正常に動いていた。おかしくなったのは、空だけなのか。謎は深まるばかりだった。竜胆や榠樝ならある程度知っているのかもしれないと思ったが、ここにはいない。空魔が増え続けているという情報もあり、何もかもが分からない状態で、現場は混乱を極めていた。上はアテにならないし、自分で出来る限りのことをやるしかない。世界は自分が手に負えるものではないとして、生き残った隊員などのまとめ役なら自分がやらなくても、他の人間が勝手にやってくれるだろう。元々柊は複数いる指揮官の中でも地位が低く重要視されていなかった。隊員からは慕われているが、大人側からすればいてもいなくても困らない。だが、榠樝など一部の人間は柊を評価しているというのもあってか、少し妬みも入っている。分かってはいたが、気にしてもどうしようもないので無視していた。

「色々とぶっ壊れたが、どうするか……って、言ってもどうしろっていうんだよ」

 もうここまで来たら、私情で動いても誰も責めないだろう。というか責める暇もない。茉莉花の居場所は何となく察していた。茉莉花が姉の件について、知りたがっていたのは聞いていた。事件のファイルまで調べているのなら、行くところは一つしかない。今でも拘っているなら、正解に近づくならそれしか手段はない。柊は意を決して、ある番号に掛けた。普段ならこんなに緊張しないのに、今回ばかりは手が震える。場合によっては何もかも、終わってしまうかもしれない。コールが二、三回と鳴り電話越しに声を聴くことに成功する。

『そろそろ掛けてくると思ってたよ』

 柊が電話をかけた相手は蘇芳だった。最近はすれ違っていて顔も見かけていなかった。話はしなくとも、行動については特別気にしていなかった。ひっそりと情報を集めているか遊んでいるだけだろうし、女癖の悪さは昔からなので、今更口出ししようとは思わなかった。ある時期から一層酷くなったとしても、あまり指摘することはしなかった。蘇芳のためというよりは、保身のためだ。昔から揉め事は嫌いだった。誰も良い思いをしない、見て見ぬ振りが一番楽で、誰も傷つかないと信じていた。
 けれども今回、今まで何もしてこなかったツケが回ってきたと、柊はひしひしと感じていた。柊は震える声で尋ねる。

「……蘇芳。お前、今どこにいる」
『どっかにいるよ』

 柊とは対照的にあっさりとした態度の蘇芳。柊を嘲笑っているようにも聞こえる。

「真面目に答えろよ。どういう状況なのか分かっているのか?」
『空魔がたくさん湧いてるんでしょ? 大丈夫、隠れ家にいるから』

 隠れ家というのがどこにあるのか不明だがひとまず、答えを聞けて安堵した。蘇芳が危険な目に合っているという心配は一切なかった。それよりも危険なのは茉莉花だ。心当たりがないか、情報を扱う蘇芳に連絡を入れた。
 もっとも、理由はそれだけではないのだが――

「……なぁ蘇芳。茉莉花がどこにいるか知っているか? さっきまでいたのに、いなくなったんだよ」

 どのような返答が来るか、身構えていたが、返ってきた答えはあまりにも分かりやすい反応だった。
 
『何で俺に聞くの?』

 その問いかけは、試しているかのようだった。柊がかけてくることを分かっていたかのような、口ぶりだったのだから、想定するべきだった。覚悟は持っていたが、土壇場で揺らぐ気持ちは隠せない。

「それは……」

 柊は思わず口籠ってしまう。これまでずっと見て見ぬ振りをしてきたのだ。覆したら全てが終わってしまう。真実を突き付けたとしても蘇芳がどう出るか。もしも、向こうに茉莉花がいたら。ありとあらゆる可能性が脳内を駆け巡る。そもそも蘇芳は話を聞いてくれるだろうか。不透明な未来に怯えるくらいなら、そのままにしておいた方がいいのではないかと思ってしまう。柊は昔から事なかれ主義だった。心が読めたらいいなと常日頃から思うくらいには、揉め事も不和も嫌いだった。何故なら面倒だし何より、良い気持ちがしないからだ。本気でぶつかり合うことを避けてきた人生。クラスメイトと適当に話を合わせて、溶け込めれば楽だった。柊の中ではこれが一番正解に近いと思っていた。
 小中高と心理や工作などの趣味はあまり表に出さず、一定の距離を保ちながら人間関係を築いてきた。地道な努力が功を奏したのか、孤立することは無かった。
 そんな中で、親友と言えば蘇芳を真っ先に思い浮かべるぐらいには信頼していた。距離を置こうとしても、お構いなしに話しかけてくる。あしらうのも疲れた柊はそのまま受け入れることにした。その時からずっと、何で自分なのだろうと思っていた。蘇芳は柊と違い、クラスの人気者みたいな立ち位置で、誰とでも分け隔てなく仲良くしている。非の打ち所のない人間だと小学校の頃は思っていた。
 それがとんでもない間違いだったと気づいたのは、学年が上がってきた頃だった。蘇芳は女子に好かれることが多かった。本人は意識していないが、彼の周りには常に女子がいた。柊は内心、不味いことになりそうだなと思っていた。結果的にその予感は見事的中した。蘇芳は告白されたら受け入れる。誰と付き合っていようが受け入れた。自分から別れるということをしなかった。傍から見れば不誠実以外の何物でもない。
 本人曰く「一人に絞る理由がない」とのこと。さすがの柊も何か言った方がいいかと思ったが、何も言わなかった。いや、言えなかったというべきか。そういう奴なんだろうと、自分が気にすることではないと言い聞かせて、蘇芳の言い分に心底呆れただけだった。心のどこかで、関係性を崩すのを恐れたのだ。調和と安定を求める柊だからこそ、蘇芳は気に入っていたのかもしれない。どうやっても人の心は見えないし、真実は蘇芳しか知らない。柊はただ、蘇芳のことを信じることしか出来なかった。

『何も無いなら切るよ?』

 痺れを切らした蘇芳が電話を切ろうとした。何も言えないまま、また終わってしまうのか。本当にそれでいいのか。たった一言、言えばいいだけなのに言葉が紡げない。いつだってそうだ。自分が停滞を望むから、肝心なところで踏みとどまってしまう。

「お前、どこへ向かっているんだよ」

 必死に絞り出した声は実に情けないものだった。真実を突き付けることは出来なくとも、せめて、自分の本音ぐらいはぶつけたかった。これが全てではない。言いたいことは山ほどある。欠片にも満たない本心――蘇芳にどう聞こえたのだろうか。答えが帰ってくることは無く、しばらくして無機質な音が聞こえてきた。これが答えだと言うのか。

「一体、何を見たんだよ、あいつ。厄介事ばかりが増えてくし。勘弁してくれよ、なぁ」

 柊は蘇芳から受け取った空魔の核を思い出していた。蘇芳がどこからか持ち込んだ空魔の核。武器を作ってくれと言われた時、柊はさすがに困惑した。一言言おうと思ったら、すぐにいなくなっていた。聞こうとしても、上手い具合に交わされる。知られたくないことがあるのは構わなかったが、そうも言っていられなかった。
 その時から、柊の苦悩は加速していった。蘇芳から渡された核は自分に真実という名の幻想を見せた。自分にしか見えず、聞こえないのか、周りの仲間にも触れさせてみたが何も見えないと言うし、聞こえないと口を揃えて言うのだ。持ち込んだ蘇芳にもそれとなく聞いたが、何も見ていない様子だった。蘇芳の場合は誤魔化している可能性もあったが、知っていたならこんなことにはなっていないだろう。
 そして、何も聞けず今日まで至る。自分にしては踏み込もうとしていたと思う。それを拒絶したのは蘇芳だ。

「蘇芳が一番悪いだろうけど……どっちもどっちか」

 スマホをしまって、大きくため息をつく柊。ふと、彼が見上げると空は先程よりも、悲しくなるくらい赤く染まっていた。