ここは地獄なのだろうか。何もない場所に揺蕩っていた。死んだかと思ったのに、まだ未練でもあるのか――潔く死ねたら良かったのに。惨めな思いをするくらいなら、粉々になって消えてしまった方が良かった。こんな形で残りたくはない。
『忘れてしまった思い……そんなもの、何の意味もありません……もう、終わってしまったのですから。ユラギ……お前が一番近くで私を見ていたのなら知っているはずでしょう』
ここに来るまでに見た自分の過去――忘れてしまいたかった記憶が呼び起される。ユラギの声が聞こえてきたので、きっとユラギが見せたものだろう。
だが、レガリアにとっては余計なもので、自分を縛る鎖でしかなかった。消してしまいたい汚点だった。ヴェーダに呼ばれていた、名前も捨てたというのに――戻れるはずがない。
『私はただ、私の望む世界を創ろうとしただけなのに……どうして』
自分の計画は完ぺきだったはずだ。計算は間違っていないはずだ。だというのに――何が足りなかったというのだろう。
元々、グラスの器ではないのは分かっていた。だからこそ、入念に計画を練った。ユラギの話を聞いてから、レガリアはずっとこの世界について考えていた。何かに縋りつかなければ生きていけない生物、自分で何も考えられない愚者、人の意見に惑わされる衆愚――こんなもの本当に必要なのだろうか。足枷にしかならない――そもそも、無駄に心を持っているから争いが起こるのではないかと考えた。人間の心を統制出来れば、解決出来る問題かと思われるがそもそもなぜそんな面倒なことをしなければならないのか、という思いも湧いてくる。だったら、もう心など必要ないのではないか――レガリアが至った結論は至極単純なものだった。何もかも捨ててしまえばいい――実際、叶っていたらどうなっていただろうか。この虚しい気持ちもきっと、発生せずに済んだかもしれない。
『それは単純。あんたが弱かっただけのこと。未練がましいわね』
不愉快な声が聞こえてくる。レガリアがもっとも疎ましいと思う、かつての友がそこにいた。
『……幻聴なら良かったのに、幻影まで見てしまうとは。いよいよ、私も終わり……ということですね』
死んでもこんなものを見せられるとは思ってもいなかった。本当にここはどこなのだろうか。こんなことなら地獄の方がまだマシだ。
『長生きしすぎてついにボロボロなのねぇ。身体って手入れが大変よね。その点、魂だけだと気にしなくていいから楽だわ。あ、でもあんたもついに身体がなくなったわね。ついでに凝り固まった頭もすっきりしたんじゃない?』
『貴女の脳の方が深刻なダメージを受けているようですが……私のことより自身の心配をした方がよろしいのでは?』
ルネが言い返した途端、ヴェーダは黙りこくる。何かを考えている様子だ。決して、レガリアの言葉に傷ついたわけではないだろう。レガリアが身構えていると、ヴェーダは意を決したように問いかける。
『結局さ。あんたはどうして私を憎んでいたのよ。本当に心当たりが無いから、八つ当たりにしか見えないのよ。私の才能が羨ましかったならそういえばいいのに。もっと見せつけてやったわ!』
ヴェーダの問いかけにレガリアは睨みつける。一体、何を考えているのか――また自分を嘲笑うつもりなのか。
『……知りたいというのですか、私のことを』
『えぇ、気になるもの。教えてくれないなら別にいいけど』
ヴェーダは特になんてことなさそうに呟く。昔と今も変わらないヴェーダの態度にレガリアの心は少しだけささくれ立った。
『……貴女が大嫌い。昔も今も――それ以外に何があるとお思いで? 思い上がりも甚だしい。その見下したかのような態度……本当に許せない』
『へーでも、私はそこまで嫌いじゃなかったわよ。むしろ、あの頃なら貴方が一番好きだったわ。だって、他の生徒はみんな顔色伺ったり、周りに合わせようとしてたのに、ルネってば派閥に誘われたとき「貴方に得があるのは分かりますが、私には何の得があるのでしょう? 聡明な方なら分かりますよね? それでは、ごきげんよう」って、去っていったじゃん。あれチョー面白かった。かなり上から目線過ぎて笑える。それに見下した態度だったら、ルネの方が上でしょ!』
『事実を言ったまでですが。何が面白いのでしょう』
『そういうとこ、私は嫌いじゃなかったってこと。差別意識はあるけれど、認めた相手には素直なところとか?』
『……貴女は私を憎んでいたんじゃないんですか!? その為にわざわざ現代まで生き延びて、私にとどめを刺したじゃない!!』
ヴェーダはレガリアに復讐する為に生き続けたという。災厄の檻に入れた時点で、ヴェーダが消えるとは思っていなかった。だからこそ、大量の生贄を欲したのだ。こんなところで潰れるような存在ではないと、レガリアは思っていた。
そして、ヴェーダはレガリアの想定通り復活を遂げて、レガリアへの復讐を果たした。ここまで憎んでおきながら、今更何を言っているのか――レガリアにはヴェーダの考えがさっぱり分からなかった。
『憎んでいたわよ。あんな地獄に突き落としたあんたを絶対に許さないって思った。そんで、あんたを殺した。私の旅はそれで終わったし、満足してるから。それ以上何もないわよ』
何もない――レガリアは自身の存在を否定されたようで、怒りが収まらなかった。
『私の存在などその程度だったってことですか!?』
『……あーもう! 面倒くさいわね! 貴方を許すってことよ! だから、貴方も私のことを許しなさいよ! 私が何をしたか分からないけど……ずっと、憎んでいても苦しいだけでしょう』
ヴェーダから出てきたのは信じられない言葉だった。許すも許さないも、レガリアにとってはどうでもよかったのだ。自分がずっと忘れずこの怒りをずっと持ち続ければ、自分が自分でいられると信じていただけだ。自分の中にある感情を認めてしまえば、これまでやってきたことが全て無駄になる。
レガリアの感情はぐちゃぐちゃになっていた。感情を否定したはずなのに、感情に揺さぶられる自分がいる。思いを蔑ろにしたのに、思いに引っ張られる――あぁ、だからこそ否定したかったのだ。
『私は……何がしたかったんでしょうね。分からないのよ、思い出せないのよ――』
(一緒に生きたかった。隣でも、一歩後ろでもよかった。側にいられたら、それでよかったのに)
とんだ嘘つきだった。思い出せないなんて言うのは、嘘で真実はとっくに分かっていた。ユラギが見せようとした思いについても、分かっている。
『本当に思い出せないの? 嘘でしょう、閉じ込めているだけよ』
閉じ込めている――ヴェーダの言うことは当たっていた。ユラギに記憶を見せられてから、レガリアははっきりと自分の願いを自覚していた。原初に抱いた、純粋な願いを――
『私の思い――』
ヴェーダと初めて見たとき、彼女の魂に惹かれる自分がいた。何にも属さない立場、力、生き方――柔軟でいてそれでも何にも混ざらない個としての存在感。自分の見る目が正しかったこと、ヴェーダが自分の願いを蹴ったことも、本当は自分の憧れたそのままの姿だった。きっと、あそこでヴェーダが自分と一緒に働くと言っていたら、終わってしまっていたかもしれない。思いというのは、揺らぎ続ける天秤のようなものだ。思いは口にすれば消えてしまうこともある――レガリアはそっと目を閉じた。
『……やっぱり思い出せませんね』
『何よそれ! 結局、あんたのこと何も分からないじゃないのー』
ヴェーダは不満そうだったが、レガリアは満足していた。これで良かったのだ。憎み続けるより、自由になろうと努力した結果だ。
『魔女は秘密の多い存在ですから。私も、ヴェーダもね――』
『意味分からないっての……けれど、ルネがそれでいいならいいわ。あーあ疲れたぁ。もう寝るわ』
ヴェーダはそう言い残して、消えていった。最初からいなかったかのように、痕跡は消えてしまった。ヴェーダのことを考えても、今ではそこまで気分が悪くはならない。
『最期まで自由な人でしたね……貴女は、いつだって自由な心を持っている。私はそんな貴女に焦がれていたのです……』
魔女王の最期の言葉は誰にも聞かれることなく、姿と共に泡となって消えていったのだった――