「これは――」
レイラが宝珠に触れた時、レインは過去を思い出していた。レイラもまた、ヴィオレットで起きたレインの過去に触れていた。どうして兄がこのような選択をしたのか、レイラは知りたかった。レインの記憶と同調していくのを感じていた。
レインがレイラを生贄に捧げることを承諾する前まで時間は遡っていく――突然送られてきた不愉快な手紙はレインを苛立たせるのに十分だった。
『ヴィオレットの姫君を生贄にしたいのですがよろしいでしょうか。一度お話をしたいので本日の夜、フィオレ湖までお願いします。追伸 無視した場合は同意とみなします』
本来ならば手紙は検閲されるものであったが、どういうわけかこの手紙だけはすり抜けてレインの部屋に置かれていた。何者かが侵入し置いていったとしかいいようが無かった。レインは無視しようとしたが、万が一のこともあるので手紙の言う通りレインは時間を作ってフィオレ湖まで向かった。
フィオレ湖はヴィオレットの外れにあるあまり大きくない湖だ。湖の周囲は木々に囲まれている。レインがその手紙の通り、フィオレ湖に訪れるとそこには一人の女が薄気味悪く笑っていた。桃色の髪を靡かせながらこちらを嘲笑しているようだった。一瞬でレインは女の悪意を読み取った。
『貴様か。あのような戯言を綴った手紙を送りつけてきたのは』
『戯言を聞いてもらうつもりはありません。私が求めるのは真実のみ。ということで、私なりの誠意を見せることにしましょう』
女は静かに嗤いながら指を鳴らすと、目の前に人間が降ってきた。折り重なるように人の束は虚ろな目をしていた。そもはや生者と呼べるものではなかった。屍と化した人間の姿を間近で見るのは初めてだった。殺された者なのかと思ったが、傷一つない。まるで魂だけ抜かれてしまったかのような屍だ。
レインは絶句するしかなかった。
『見覚えのある顔がいくつかあるでしょう』
そう言われてみると、そこには城で兵士として勤務していた者。街に住んでいた親子。従者の者など様々な者がいた。様々な感情がこみ上げてくるものの、度が過ぎると感情というものは機能を果たさなくなるようだった。レインはただ屍を呆然と眺めることしか出来なかった。幻であって欲しいと強く願ったのは初めてだった。あまりにも凄惨な状態に、現実から遠ざかろうとしてしまった。
『いやぁ。性格最悪だなぁ。僕も思わずドン引きだよ』
レインが我に返ると、女のほかにもう一人、それも宙に浮いている人が出現した。スカイブルーの髪を揺らしながら子どもっぽいしぐさで、辺りを漂っている。なんだか一瞬だけ馴染みのあるような感覚があったが、女の仲間である以上どうしようもなかった。こんな化け物相手にどうすればいいというんだ。
『一体、何なんだ。お前たちは……何がしたいんだ!?』
『断ればさらに死体が増えますわ。それどころか、国一つ消えてしまうかもしれません。くすくす。消えてしまった方が枷も消えて楽な気もしますが』
『不服かもしんないけど、従った方が良いと思うよ? 僕としてはさすがにこの国が無くなるのは嫌だな。これでも思い入れはあるからね。なんでか分かんないけどさっ』
『……貴方は黙っていてくれませんか?』
『やれやれ一蓮托生なのに酷いな。けど、君が言うなら仕方ない』
そういいながら、青い髪の人間は消えてしまった。精霊か何かだったのだろうか。いや、それよりも目の前にいる女だ。女が言っていたことは冗談のようにも聞こえるが、目は笑っていない。この女ならやりかねない――レインは即座に剣に手をかけた。
『ヴィオレットの血筋であるのが、貴方達にとって最大の不幸……おっと、私に刃を向けますか。いいでしょう。私がどういう存在かをその身をもって知りなさい』
この世のものとは思えない力。内臓が押しつぶされそうな重圧で一歩も動くことが出来ずに蹂躙された。女はつまらなさそうに髪をいじる。
『まだやりますか? 私も多忙な身ですので、さっさと諦めていただけると有難いのですが』
『誰が……!』
『なかなかやりますね。これでも立ち上がりますか。では、動けなくしてあげましょう』
女が指を鳴らした。まるでマジックのようである。レインは剣を構えたものの、その行為は何の意味も為さなかった。指を鳴らしたすぐ後、左足に強烈な痛みが走る。立つことすら困難な重く苦しい痛みにレインは思わず膝をついてしまう。立ち上がることが出来たというのに、振出しに戻ってしまった。それどころか立つことすら難しくなっていた。重力に加え足の痛みが重なり、レインはうつ伏せのまま動けなくなった。立ち向かうにしろ、あまりにも力の次元が違いすぎる。一体、何の力だろうか。この世のものとは思えなかった。目の前にいる女が災厄の魔女に見えてきた。
『私はこれでも忙しい身なので、一旦帰りますわ。返事は三日後に聞くとしましょう。良い返事を期待していますよ……レイン。あぁ、それと私の存在は秘密にしてくださいね? 喋ったらどうなるかぐらいは賢い貴方なら想像出来ますよね?』
魔女は幻影のように消えていく。夢ならば醒めて欲しかったが、左足の痛みが嫌でも現実を叩きつけてくる。
『クソッ。何なんだ、アレは……あんなもの。まるでおとぎ話の魔女じゃないか……』
日常からかけ離れた唐突過ぎる出来事に思わずレインは拳を地面に叩きつけた。普通なら戯言として聞き流してしまうような話だ。
しかし、彼女の目は嘘をついている様子はない。それどころか本気の目をしていた。これが夢でなければ彼女は三日後にやってくる。あの目は本気である。レインは決めなくてはいけなかった。国を取るか妹を取るか――究極の選択だった。
――レイラ、俺はどうしたらいいんだ。お前を失いたくない。けれども、選ばなければ全てが無くなってしまう。
これはレインの心の声だった。月明りが照らす夜、レインは虚ろな目で湖を見つめていた。湖は静かで波紋すら見えない。
――お前には酷く辛い思いをさせるだろう。だが、俺には道が見えないんだ。皆が笑顔になれる答えが見つけられない。本当に……すまない。
三日間誰にも言わず一人で考えた。両親にさえ告げることは無かった。告げてしまったら最後、きっと本当にこの国は消えてしまうだろうから。
『これしか無いんだ……』
女と会う直前、レインは自室にある鏡に向かって呟いていた。後悔しないように、己の責任から逃げ場を無くすように――言い聞かせていた。
しかし、鏡に映る自分はあまりにも頼りなく、今にも泣き出しそうな顔をしていた。こんな顔は誰にも見せられなかった。何があっても、平然と振舞わなければいけないのだ。国王でもなく、自分なのか――きっと自分がこの選択肢を選ぶと見透かされているのだろう。ある種期待されているのかもしれない。そう思うと、腸が煮えくり返るが、実際今のレインには抗えるほどの力はなかった。
『罪も罰も全てこの中に――』
国か妹か――答えは決まっている。背負うべき責務がある以上、運命からは逃れられない。
――絶対に……潰す。何があろうとも、あの魔女だけは絶対に……
場所はいつの間にかレイラが封印された神殿に移っていた。恐らく、レイラが生贄にされた直後だろう。レインの心の声が流れ込んでくる。レイラがいなくなった後、レインは静かに目を瞑って祈っているようだった。
――お前に恨まれようとも。これだけは絶対に譲れないんだ。
そこで記憶は途切れた。レインと魔女王が通じていたという事実にレイラは驚きを隠せない。グラスが最後の最後に気を利かせたのか。レインから嫌われているという事実は無かったが、逆に胸が苦しくなるような記憶だった。手酷い仕打ちを受けても、レインは誰にも言わず一人で背負ったのだ。両親にも部下にも告げず一人で抱え込んでいた。フルールが文句を言いたくなるもの分かるが、自分がこの立場だったらどうしていただろうか――レイラはやるせない気持ちになる。
(兄様……)
記憶の海を抜けレイラは現実に戻ってきた。レインは相変わらず、伏せたままだった。あれだけの傷を負えばさすがに動けなくなるものか、レイラは兄が普通の人間であることに不思議と安堵を覚えていた。
「兄様、全てを知ったうえで――あなたは茨の道を選んだのですね」
恐らくレインは計画のほとんどを知っていたのだろう。知っていながら、虎視眈々と機会をうかがっていたのだ。ただ、レインが何をしたかったのかまでは分からなかった。まだ、拾えていない真実があるはずだ。レイラはレインの傷に手を当てた。傷が少しずつ癒えていく。ある程度治ったのを確認すると、レインから手を遠ざけた。
しかし、レインは目を覚まさない。
「恨んでいたのに、やりつくすと、虚しくなる。甘いと言われそうですね。でも、よかった。これで私は――」
レイラが安堵すると扉の方から音が聞こえてくる。どうやら術が解けて開いたようだ。
「レイラちゃんっ!!」
ラパンが勢いよく入ってきて、レイラの元に飛びついた。それに続いてわらわらと入ってきた。
「レイラならやると思ったわよ。だって、私がついているもの」
「何もしてないじゃん~」
一気に封印の間が賑やかになる。これだけ騒がしくなっても、レインは目を覚まさなかった。レイラは少し心配になってきた。
「そういえば、何がどうなってこうなったのか知りたいな。ぶっちゃけ、実力的に殿下と姫様じゃ天と地の差があるでしょ」
「まぁそれはそうなんですけど……」
ルーンに聞かれレイラは顛末を説明した。レインとの戦いから記憶の端々まで、レイラの見解も交えた結果を聞くと、ヴェーダは感心していた。本人の口から直接聞くという目標は達成されなかったが、ある程度真実を掴めたと言えるだろう。
「なかなか大胆な攻略の仕方だね」
「グラスの力ってそこまで出来るのね。私も使ってみたいわ」
「まだ上手く使えませんが、それなりになんとか」
「本当に世界壊せるかもねぇ~」
「……うん」
目的は世界の破滅――とんでもない目的を抱えてここまで来たのだ。封印を解いて終わりではない。ここから先も、もう一仕事がありそうだった。レイラ達が話し合っているとさらに客がやってきた。
「レイン!! レイラぁ!!」
「わ……!!」
フルールは入るやいなや、レインの元に駆け寄っていった。フルールの後に続いて、メロディアも入ってきた。一気に騒がしくなる。
「どうして、こんなになるまで……何やってんのよ!」
フルールは誰に向けているのか分からない言葉を泣きながら呟いていた。本気でレインのことを心配していたのだろう。
「兄様は死んでいませんよ。治療しました。そのうち目を覚ますでしょう」
「よかったぁ。でも……レイラ。貴方は大丈夫なの?」
「私は大丈夫ですよ。傷なんてすぐに治ってしまいますし」
「傷じゃなくて……その。ううん、何でもない。力になれなくてごめんなさい」
フルールは気まずそうにレイラから視線を逸らした。どっちつかずの態度で不快な思いをさせたかと、思っているのだろう。
「気にしないでください。それよりも兄様を見てあげて」
「あら、くたばってしまったかと思ったけれど。気を失っているだけなのね」
後から来たメロディアがレインを見下ろす。彼女はレイラが治療したのを分かっていたようだ。
「縁起でもないこと言わないでよ!」
「死んでないならいいじゃない。それにしても派手にやったものね。まさか姫様が勝つとは」
「というかなんで貴方そんな平然としてるのよ! 色々あったのに」
「勝手に一人で突っ走っていた殿下が悪いでしょう。それに私は深入りしない主義だから」
平然としている――レイラは自分へ言われているような気がした。実の兄へ刃を向けたのに、そこまで動揺もしていなかった。レインの記憶を見たせいか、そちらの方に気を取られていたように思える。もっと、心苦しく思うべきだったのだろうか。
しかし、レインは覚悟をもってレイラと相対していた。そこに一切の情など無かった。ならばレイラも同じ気持ちで相手をしなければ敵うはずがない。避けられぬ運命だったはずである。だが、仕方ないということで済まして良かったのか――この気持ちは果たして正しいものなのだろうか。
(私はまだ心をもっているよね……?)
レインが起き上がることを願うしかなかった。
一方、ラパンはメロディアの後に続いて入ってくる人影を確認していた。
「……なんかまだ人が来るっぽいけど?」
「これ以上人が来る前にさっさと立ち去った方がいいね」
「あー!! ししょー! 何しているんですかー」
立ち去ろうとした矢先に、後からついてきたセゾンとばったり鉢合わせたのだった。
「君達も来たのか」
「気になるものは気になりますしねーそれよりレイラ様は無事でよかったです。レイン様は……」
セゾンの視界には気を失っているレインが映る。倒れているレインを見てもセゾンはレイラを責めたりしなかった。そもそもセゾンはレイラの選択を応援していたので、とやかく言うつもりは無かった。
「何か大所帯になってんなぁ」
セゾンの後ろから顔をのぞかせたフォルテは珍しいものを見るようにあたりを眺めていた。
「……誰?」
「忘れんなよ! 大魔法使いフォルテ様だよ!」
「初めて聞いた名前だよ~」
「そういやほとんど名乗ったことねぇから、仕方ねぇな」
「……じゃあキレないでよ」
「ノリだよノリ。気にすんな」
「やっぱ変な魔法使いだねぇ~」
フォルテのテンションにいまいちついていけないラパンは一気に体力を削がれた気分になっていた。ミレドは気にせず馬鹿にしていた。
「どうにかならなかったんですかねぇ……」
「なれば、こんなことにはならないさ」
「……ししょーはどこまで分かって――とは言っても貴方は絶対に言いませんよねー自分はとりあえず、レイン様へ付きますよ」
セゾンはルーンに何か言いたそうだったが、それ以上は何も言わなかった。色々な人に振り回されている彼だからこそ思うところが多いのだろう。
レインの周りに人が集まっていく中、レイラはずっと祭壇の前でぼんやりと考えていた。最後までレインの口からは直接聞けなかった。何も話せないまま終わってしまった。
最初は話し合おうと思っていたが、レインの方から対話の道を閉ざしてしまった以上何も言えなかった。もっと自分が踏み込めばよかったのか、今となってはもう遅い。レインの方を見ると、メロディアとフルールが介抱している。レインは依然として目を覚まさない。
このまま最後の別れとなるのか――
「後悔してる?」
物思いにふけるレイラの側へルーンが寄ってきた。彼の問いにレイラは正直な思いを告げる。
「していないかと言われたら、微妙ですね。正直、本当は話が出来たら良かったと思います。けれども、私にはもうその資格も無いのでしょう。私はこの場にいない方がいい。というか、私が消えてしまいたい。何でしょう、どうして。こんな」
レイラは必死に目をこする。さっきまでは平気だったはずなのに、急に涙が止まらなくなってきた。自分の中で受け止めきれない思いがどんどん湧き上がってくる。レインが死んだわけではない――なのに悲しくなるくらいに涙が溢れてくる。
「私は、最低……です。何もかも、決めたはずなのに。迷わないと言ったのに。辛い、苦しいよ」
本当は話して欲しかった――自分の口から説明してほしかった――あんな形で知りたくなかった。この国を真剣に考えている兄を尊敬する一方で、生贄にすることを選んだ兄がいる事実が嫌だった。嫌っていなかったのは良かったが、それが引っ掛かってしまう。身勝手な言い分だが、自分を選んで欲しかったと思ってしまう。静かに震えるレイラをルーンは何も言わず見守っていた。
「あれだけ、真実を知りたいって言っていたのに。実際に突き付けられたら、私は……」
自分で選んだ道を後悔しない――どれほど、辛いことかも理解していなかった。きっと、全て丸く収まるとどこか思っていた。
「心の底から憎めたら、よかったのに」
いっそのことレインを殺してしまえば、こんなに苦しくならなかったのか、殺さなかった自分が甘かったのか――ただ、話をしたかっただけなのに、上手くいかないもどかしさを、ぶつけることしか出来なかった。
「……僕はさ。苦しくても現実と向き合える人間が羨ましいよ。そして同時に……馬鹿らしく思う」
「……え?」
さっきまで黙っていたルーンがぽつりと漏らした言葉。涙ぐむレイラを見ていたルーンは恐ろしく無表情で、それでいてどこかレイラと同じように苦しそうにも見えた。レイラは何も言えずルーンの透き通るような蒼い瞳を見つめていた。
「人間という存在は、素晴らしいよ。だからこそ――」
ルーンが言葉を紡ごうとした瞬間――
「レイラッ!!」
「えっ?」
フルールの叫びが上がり、レイラが咄嗟に後ろを振り返る。
そこには、先程まで倒れていたはずのレインが亡霊のように揺れながら、剣を振り降ろそうとしていた――