勿忘草の記憶

 昏く深い海の底に沈んでいく。静かに目を瞑った。

 悠久のような時が流れる中、私はこの世界での記憶を思い返していた。どこから来たのかも分からない私が、どうしてここまで来られたのか。
 彼が、エルフィンがいたから――心置きなく胸を張って言えたら、どれほど良かっただろう。

 私は自分のことを人間だと思っていた。疑いもしなかった。しかし、皆が寿命などで死んでいく中、私だけは老いなかった。人間ならばあって当然の変化が、私には起こらなかった。どうして私だけがこのような形になっているのだろうか――幾千の時に取り残され、答えに辿り着けず私は独り彷徨い続けた。
 
 人ではないと気づいたのは、私の心にあった感情――空魔のおかげだった。ずっと私の側にいてくれたエルがいなくなって、七体の空魔が世界で暴れている様を見て、ようやく目が覚めた。自分が人ではないということに、気付いたのだ。
 だが、人でなければ何なのか――その答えは見つからなかった。真実に辿り着けず、抜け殻となり目的も無いまま、死ねない体と共に生き続けた。もはや、生きているはずなのに、心は死んでいるような感覚だった。それでも、自分で歩みを止めることが出来ないので、進むしかなかった。アヤメは時折、そんな私を悲しそうに見つめていた気がする。私が生んだ最初の空魔たちは人間に倒され、現在ではアヤメだけとなってしまった。その時は特に悲しいとも、思わなかった。淘汰されたという事象として、違和感なく受け入れていた。それから、しばらく人の世を観察し続けた。くだらないことで、長年人間同士で争っていた。空魔という共通の敵を見出していたときは、互いに協力していたというのに、嘆かわしい。
 やがて、疲弊しきった私は自分の世界を作り、そこで眠ることにした。目覚めたとき、世界が平和であるように祈りを捧げた――忘れないように、忘れられないように。

――私は、誰に忘れられたくないんだ?
――人間になんか、忘れられてもいいだろう。どうせ、貴方は真っ当に生きられないんだから。
――エルフィンのいない世界に、何の意味がある?
 
 自問自答を繰り返しても、答えは出ない。希望の光は遠のいていく。明かりが灯されることも無く、私の世界は真っ暗だった。当たり前だ。自ら閉ざしてしまっているのだから、光が差すことなどあり得ない。このまま目が覚めなければ、永遠に夢の中にいられるのだろうか――そう思っていたとき、アヤメから声をかけられた。

『今の世界は昔に比べると、穏やかよ。無理にとは、言わないけれど……気が向いたら見て欲しいわ』

 しばらく悩んだが、アヤメがそこまで言うならと思い、私は恐る恐る世界へ踏み出した。あまり期待していなかったのだが、蓋を開けてみればアヤメの言う通りだった。彼女は私の影だ。嘘を吐くはずなかった。穏やかという言葉では言い表せない、争いがほとんど無い平和な世界。多少の犠牲はあるものの、過去の血塗られた歴史に比べればマシだった。
 なによりも、希望の光がこの世界にはあったのだ。これこそが、私の思い描いていた世界。この世界なら、きっと私も受け入れられると――愚かにも思ってしまった。

 私が最初に地上へ降り立った場所は、勿忘草という花が咲き誇る、美しい場所だった。淡い水色をした花で小さくて可愛らしかった。風にあおられ、私は少しだけ目を細めた。花畑の奥で揺れ動く何かを見つけた。人の形をしていて、直観的に人間だと悟った。それも小さな子どもだった。本来なら、身を隠すべきだったが、その時の私は心が躍っていた。その人間を知りたくなってしまった。
 しかし、私が声をかける前に向こうにバレてしまった。人間は何の前触れもなく、振り返った。私はその姿を見て、息をのんだ――

『エル……!?』

 思わず声に出してしまうくらい、似ていた。エルの小さい頃の写真とそっくりで、何らかの繋がりがあるのではないかと思ったくらいだ。私はここで禁忌を犯した。そこにいたのは、エルじゃないのに。エルはもう死んでしまったのに、私は重ねてしまった。子どもに、そっと触れようとしたが、私の邪念を読み取られたのか怖がられた。私はエルに拒絶されたようでショックを受けた。
 それが一過性のものであればよかったのだが、その時の私はどうしようもなく、狂っていたとしか言いようが無かった。私と同じ存在にしようと、その子どもに呪いをかけた。子どもの右目を抉って、そこに自分の目をはめ込んで空魔と人間の中途半端な化物にしてしまった。
 この時、人間を完全に空魔化させる方法は、完成されていなかった。そもそも、こんなことをするつもりじゃなかった。この時、私の中で何かが壊れていった。
 
 他ならぬ私が、この子どもの――星影竜胆の――平穏を壊したのだ。
 
 竜胆はいつしか大きくなって、私の元へ会いに来た。この世の憎悪を煮詰めたような瞳を私に向けていた。対話した結果、私は彼がエルの子孫だと知った。竜胆はワケの分からない記憶を流されて迷惑だと――こんなことがあり得るのかと私は思っていたが、エルは魔法使いだったことを思い出した。きっと、エルは末代まで続く呪いをかけたのかもしれない。他の誰でもない私が「一人は寂しい」と言ったから――
 そこまで考えて、私は失っていた心を思い出してしまった。私は目の前にある現実が受け入れられなかった。エルはここにいると、夢の中で生きようと決めてしまった。

『どうして、お前は拒絶する……』
『どうもこうも無い。お前は勘違いしてるだけだ。だって、お前の言う人間は当に死ん――』

 その先を紡がせてしまっては、夢が終わるだけ。私は無我夢中で竜胆を襲っていた。胴を引き裂こうが、内臓を引きずり出そうが、竜胆が死ぬことは無かった。私と繋がっているからだ。あの時かけた呪いは、確かな効力を有していた。そのことを知った竜胆は、どんな表情をしていたか。口にするもの憚られた。私のせいだというのに、その時の私は竜胆を――世界を嘲笑っていた。それほどまでに、今の状況が愉快だったのだろう。

 それから私は再び空魔を生み出した。理由はただ一つ。竜胆を屈服させ、夢の中に閉じ込めるために――明確な悪意を持って。

 今度は竜胆のような中途半端な空魔ではなく、完全なる空魔を作ろうと考えた。これまでの、七体の空魔はまさしく化物という姿をしていたので、今回は人間という生き物の本質に迫ろうと、人間の形を模したモノにしようと思った。ちなみにアヤメはいつの間にか人の姿になっていた。アヤメに聞いても、本人でさえ、よく分からないらしい。私にもよく分からない。今でも謎である。
 少し話が逸れたが、人型空魔を作る際にあたり、私は様々なモノに目を通した。捨てられたモノ、愛に飢えたモノ、真を知らないモノ、正しさを求めるモノ、そして――嘘を吐き続ける者。このモノたちに共通するのは、自分の抱いた夢の中で生きていること。理想が高いと言えば、聞こえがいいのか。とにかく、現実に不満を持っているようなヤツらだ。そういったモノの方が、負の感情を溜めやすいし、何より操りやすい。私の目論見通り、空魔となったモノはそれぞれの願いを抱いて、世界に繰り出していった。基本的に好きにしていいと言ったが、ある一言だけは常に言っていた。

『世界はいずれ終わる。これは一時の夢でしかない。忘れるなよ』

 どれくらいのモノが自覚していただろうか。自身が空虚な化物であるということに――クロユリは人間に対する憎悪しかないし、リマは享楽主義であった。
 私の見立てだと少なくとも、蘇芳や柘榴は分かっていたように思える。特に柘榴は畜生のくせに、妙に癪に障るヤツだった。私に文句を言うくらいだった。別に私は文句を言われたくらいで、消そうとは思わない。かと言って、みすみす許すワケが無かった。上下関係をきっちりとさせるべきだと思った。そんな私の思いをくみ取ったのか、それ以降は大人しくしていた。何とも抜け目のないヤツだった。
 その一方で、桔梗のように従順なモノもいた。ヤツは私の言うことを、何でも聞いた。現代における大半の空魔の襲撃は桔梗が先導していた。私を崇拝したり、鬱陶しいところさえなければ、もっとよかったのだが。人間から空魔を作り出した弊害と呼ぶべきだろうか。私はとくに、持ち上げられても、嬉しくなかった。そんなものは、大昔にとっくに経験していた。
 それから、私はひたすらこの世界を空魔で飲み込もうとした。世界を終わらせようと――強く願って。私と相対する、竜胆を呑み込むようにして。

 時は少しずつ流れ、空魔という存在が再び確立した世界で、私は更なる絶望に叩き堕とされた。絶望と言ってはあまりにも、身勝手極まりないものだった。竜胆が想い人――時津玲菜――と結ばれた現実を知った時、私はもう笑うしかなかった。竜胆はどこまでも、私を見てはくれなかった。自分を曲げず、呪いに侵されようとも、己の意思を貫いた。その時の私は素直に祝福出来なかった。化物の私に出来るはずが無かった。
 
 竜胆が知っていたのかは分からないが一度だけ、玲菜とまだ赤子だった葵と会った。他愛も無い会話をした。あてつけに竜胆に科せられた呪いの話もした。
 そしたら、玲菜は何て言ったと思う?

『生きてればどうにかなるよ。呪いも、全部跳ねのけて、幸せになるんだから!』

 私に啖呵を切ったんだ。馬鹿らしいほど、眩しかったよ。同時に、どうしてこんなヤツが竜胆の側に居るんだろうって、思った。あまりにも、不釣り合いな気がした。どういった意味なのかは――想像に任せる。
 でも、玲菜は最後にこうも言ったんだ。

『……貴方も、自分の道を――幸せを見つけられるといいね』

 そう呟いた玲菜の目は、痛ましいものを見るような目だった。私は哀れまれているのか――同情されているのかと酷く憤りを感じた。玲菜に自覚は無かったのだろうけれど、彼女の刺した針は間違いなく、私の心にダメージを与えた。その時芽生えた感情は、見るに堪えないものだった。人間はいつもこんな感情を持て余しているのか、と。こんなものを抱えて生きるより、自由に生きた方が良いに決まっている、私は心の底から思った。
 だからこそ、人は苦しみから解放されるために空魔を選ぶのだろう。この時、私は初めて人間に対する理解を深めた気がする。
 だが、空魔になったとしても完全に空虚にはなれない。そもそも、空魔を構成するのは強い感情の欠片だ。空魔は負の感情から出来やすいと言われているが、マイナスだろうがプラスだろうが、思いが強ければ関係ない。負の感情から出来やすいと言われるのは、単に負の感情の方が、人間にとって力を発揮しやすいからだ。空魔とは心の残骸のようなものである。その残骸が暴れているだけ。普通は後悔を抱いていたとしても、空魔になることは無い。そこにどれほどの感情が残されているかが重要なのだ。簡単に言えば、強い思いが人を狂わせる――私が少しだけ人間を哀れに思った瞬間だった。
 
『見方を変えれば、世界が変わる。空魔だからこそ、出来ることもある』と、確か蘇芳がそんなことを言っていた、気がした。

 では、私に出来ることとは何か。私の幸せとは何だろう。玲菜は見つけられるといい、と言ったが私には分からない。私はこんなことを簡単に言う玲菜は、不幸を知らずに育ったのだろうと、思っていたが彼女の心を見るとそうでもなかった。多感な時期に親を亡くし、母方の祖母の元で育ったようだ。
 一般的に見れば、辛い境遇だろう。それでも、彼女はこの世界に幸せを見出した。一方で、私はこの世界に希望を見出せなかった。世界が絶望に彩られているようにしか見えない。
 もはや、黒い感情だけが私を形作っているようだった。

 後は流れるままに、私も世界も破滅に向かっていった。ミオネという存在を知り、私自身がただの残り滓だと自覚するのに、長い年月を費やした。

 人間という種への憧憬を抱いた、成れの果てはようやく真実を知った。

 今も昔も、世界は希望よりも絶望が勝っていた。
 最初は確かに、人に憧れていた気がした。人の悩みごとや、頼みごとを解決していたら敬われた。祭り上げる人間に違和感を覚えながらも、私は人間のために尽くした。
 けれども、私の力に目が眩んだ人間の愚かさが目について、人と関わることが嫌になってしまった。
 そんなときにエルと出会った。エルは世界を正しくするために旅をしている、と言っていた。エルはとても穏やかな人だった。世界の平和を願い、困っている人には手を差し伸べる。時折、子どもっぽい悪戯をしてきたけれど、それ以外は普通だった。ありふれた魔法使いの一人だったと思う。
 ましてや、人に呪いをかけるような人ではない、と私は思っていた。
 
 けれども、私は彼の死ぬ間際、見て見ぬ振りをした。あの温もりを忘れたくなかったから――
 
 心の底から大好きだった。エルになら何をされてもよかった。傷跡を付けられたとしても、嬉しかった。
 だから、今でも胸の奥底が疼く。
 
 結局、最後に思い出すのは貴方の笑顔だった。
 ごめんね。私はもういいんだ。この世界もいいんだ。最期に思い出せただけで、幸せだから。

 さよなら。私の夢。
 後はすべて、委ねよう。流れるままに――私の旅はこれで終わりだ。