あの日のことは、今でも鮮明に覚えていた――
竜胆が玲菜の首を締め上げている姿が、目に焼き付いて離れなかった。一瞬だけ目を逸らしたら、そこに玲菜の姿はなくなっていた。その場に呆然と立ち尽くす竜胆の姿だけ。何が起こったのか。
まるで、玲菜は最初からいなかったような、不思議な感覚だった。
『ミュオソティス……空魔をこの世から消すのに、死が必要ならいくらでも捧げよう……はは、ははは』
虚空へ向けて微笑む竜胆。その目に宿すのは憎悪か狂気かそれとも――少なくとも幼い葵はこの時、何かが壊れたのを感じ取っていた。
それから葵の心の中は混沌と化した。憎しみや悲しみが、忘れようにも忘れられず、今でも心の中に巣くっている。葵は玲菜を直接殺した竜胆よりも、元凶である空魔の方に憎悪を抱いていた。あの時の竜胆は、正気ではなかったと分かっていたからである。
しかし、内心複雑な心境だった。実際目の前で殺している瞬間を見ていたのだ。そう簡単に割り切れるものではなかった。
それでも、付いてきたのは竜胆が期待を裏切らなかったからである。空魔をこの世から滅ぼさんと、ひたすらに歩み続けてきた姿をずっと近くで見ていたのだ。良く思っていないが、嫌ってはいない――矛盾しているようで、破綻せず両立するような曖昧な関係だった。
だが、葵は良くも悪くも真面目だった。憎しみにも染まれず、かといって許すことも出来ない、中途半端な自分を恥じていた。そんな自分を隠すように、エンプティ内では所長が父親であることを明かさず、仲間たちと接してきた。葵は積極的に仲間からの相談に乗り、頼られる存在となった。そうすることで、少しでも惨めな自分から遠ざかりたかったのだ。竜胆からまとめるように言われたわけでもないが、いつの間にかリーダー的存在になっていた。誰も疑問には思わなかった。
しかし、誰とでも友好的ではあったものの、葵自身は周りから一歩引いていた。比較的長く接していた霞にさえ、本心は明かさなかった。元々、行き場の無い子どもを引き受けているような、エンプティだ。みんな自分のことで手一杯だろうと葵は思っていた。
そんな時、やってきたのが紫苑だった。葵は竜胆から、簡単な説明を受けていた。何でも紫苑は物理的痛みを感じないというのだ。それに加えて「本人は言わなかったけど、心の痛みにも鈍いんじゃないのかな。どのくらいかは分からないけれど……」と竜胆は語っていた。
心の痛み――それを聞いた時、葵は紫苑に興味を抱いた。
実際に血を流しても痛みを感じていないのか、表情を一切変えない紫苑に対して恐怖感を抱いた仲間たちは、紫苑と距離を置いていた。紫苑と組みたがる人間がいないので、葵は進んで紫苑のパートナーを買って出た。正直、責任感というより、都合が良かったというのが一番だった。
紫苑と組んでからというもの、葵は散々な目に合った。紫苑は痛みを感じないせいか、最初の頃は無茶ばかりしていた。怪我をしてもけろっとしているし、反省しているか分からないほど無感情。淡々と悪いと口にはしているが、内心どう思っているのだろうか、と何度思ったか。
そんな紫苑を見て、少しだけ哀れに思う一方、葵は少しだけ紫苑を羨ましく思った。痛みや悲しみを感じなくなる力があるのなら欲しいと、母を失った日から心の奥底で願っていた。何も感じないなら、苦しんで葛藤することも無い。痛みが生きている証などと言う人間もいるが、葵にはいらなかった。ただ、葵は空魔の存在など知らず、普通に生きていたかった。悲しみや痛みなど知らず、遠くにいたかった。紫苑は苦痛を抱えた葵にとって、自分が思い描く理想に誰よりも近かった。
しかし、紫苑と組んでいるうちに葵は疑問を抱いた――本当に紫苑は心の痛みを感じていないのか――それはほんの些細な違和感だった。仲間の死亡時や、茉莉花と接しているときなどもそうだが、顕著だったのは紫苑の友人が、空魔になってしまったあたりだった。何も感じないはずなのに、どこか苦しそうな面持ちをしていた。見ているこちらが、痛ましく思うほどだった。
結局蓋を開けてみれば、葵の予想通り、紫苑は完全に痛みを失ったわけではなかった。今の紫苑を見れば分かる。あれは、本当の紫苑ではなかったのだ。その事実を知った葵の心境は――
「期待外れ――とか……まさか思ったりしてないよねぇ?」
意識が一気に引き戻されるような感覚だった。柘榴の回し蹴りが葵の頭へ派手にヒットしていた。かろうじて受け身を取って、ダメージを抑えたがそれでも、油断出来ない威力だった。空魔は並の人間とは比較ならないほどの身体能力を持ち合わせていた。
「そもそも、紫苑は苦痛を無くしたわけじゃない。僕が紫苑の痛みを引き受けていただけ。都合の良い話あるかよ!」
葵の心を覗き込んだのか、柘榴が軽蔑するように吐き捨てる。そういう仕組みだったのかと、今更ながら冷静に葵は納得したのだった。葵は柘榴と紫苑の関係性を知らないが、柘榴が紫苑に対して執着しているのは気付いていた。
それに加えて、自分に対して負の感情を抱いていることも――きっと、出会ったときから全て見透かされていたのだろう。
「心が見られるくらいで、全てを知った気になるなよ。気持ち悪いんだよッ!」
「事実だろ」
「だとしても、お前には関係無いことだ! 調子に乗るなよ」
葵は邪気を払うように剣を振るった。周りに炎が広がるが、柘榴はものともしなかった。柘榴の動きは身軽で、まるで猫が跳ねるようだった。
「ちっ、キリがないな」
柘榴は態勢を立て直すように、葵から距離を取ろうとした。
しかし、葵は逃がさなかった。何としても、一撃は入れたかった。葵が何を言ったところで、柘榴の気が済まないのは分かり切っている。とにかく気に入らないから殺す。理屈も理性も通じない怪物に、何を言っても無駄だ。この世から一刻も早く、退場させるのが手っ取り早い。相容れない者同士、どちらか消えるまで戦いは終わらない。
「……本当なら、紫苑をエンプティに渡すつもりなかったんだよ。その時はどうしようもなく弱かったから。動けるようになっても、ミュオソティスを動かすのにも手間取ったね。本音言うと、空魔になっても上手くいかないことばかりだったよ!」
柘榴のニット帽から伸びる影が葵の左肩を切り裂いていった。葵の肩から赤い雫が飛び散る。左肩を抑えながら葵は剣を構えた。柘榴の方はまだまだ余裕がありそうだった。葵を弄んでいるようにも思えた。
「そこの二人のように、手っ取り早く殺してもよかったんだけど……葵のことは、気に喰わないから苦しめて殺したいんだ。ははっ」
「あぁ、テメェは何もかも腐り切っているということが、よく分かったよ!」
傷口からの出血など、気にも留めず柘榴に切りかかる。柘榴の黒い影はバラバラと切り刻まれていった。柘榴の攻撃は決して、見切れないものではない。冷静に見れば、軌道が分かるものだった。
だが、これが全力ではないだろうと葵は警戒を怠らなかった。
「やるじゃん」
柘榴はこれまでと、段違いの動きに柘榴は感心しているようだった。だからなんだ。葵にはどうでもよかった。目の前の敵を消すことが出来るのなら、死んでも構わない。葵の黒剣は葵の思いに応えるように柘榴の胸を貫いていたが、柘榴に効果は無かった。
「残念だったね」
「ハナから期待などしてない」
葵は柘榴の胸から剣を引き抜く。
もちろん、剣を引き抜けば血のようなものが、流れ出るがそれでも柘榴が倒れる様子は無かった。さすがは人型空魔と言ったところか。柘榴は絶対にやられる気が無いのか、煽るような態度だった。
「頑張ってる君に一つ助言しよう。核さえ壊せば僕は殺せるよ。他の空魔と変わらない。所詮僕も、ミュオソティスの駒だからね」
助言と言いつつも、柘榴は絶対に見つからない自信があるようだった。あの言い方からして、本体に核が埋まっているとは思えなかった。帽子など身に着けているものが怪しいが、暴くためには細かく切り刻むしかないが、効率が悪すぎる。
しかし、可能性は少しでも消した方が良い。余計なものを極限までそぎ落とせば、見えてくるものがあるはずだ。
「片っ端から潰してやる……」
「やれるもんならやってみな」