Empty Gentian

 生まれた時は普通だったはずなのに、途中からおかしくなっていった。

 全てはあの日、アレに出会ってしまってから――自分という存在が信じられなくなった。アレは根こそぎ、自分を奪い取っていき、逃れられないように呪いをかけていった。呪いは自分を苛んだ。誰かの声が毎日、絶え間なく聞こえてくる。
 ×××を忘れるなと――自分ではない誰かが延々と語り続けるのだ。恐らく×××というのはアレの名前なのだろう。記憶の隅に置こうと、忘れられるわけがない。
 とにかくアレと出会ってしまってから、確実におかしくなってしまった。
 最初の異変は、お腹は空かなくなり、味覚や嗅覚が使い物にならなくなった。そして、しばらく経った頃、鏡を見ると半分だけ黒くなった自分の姿が映しだされていた。両親は病気かと心配したが、病院は拒否した。病院でどうにか出来るものではなかったから。何が原因かはっきり分かっていた。何度か死のうとしたが、上手くいかない。これも呪いなのだろうか。自分の体に何が起きているのか、考えるのもおぞましい。どうして自分がこんな目に遭わなくてはいけないのか――理不尽に思いながらも、どうにかしたいと願い、勿忘草の花畑へ向かった。

 アレは悪びれもせず、屈託のない笑みで迎えてくれた。彼女は何も気にしていない。自分の身に降りかかった出来事など知るわけがない。
 
――どうして、怒っている?

 彼女は無垢な瞳で問いかける。何を馬鹿なことをほざいているんだ。訳が分からないといった様子で、彼女は呆けた顔で僕を見ていた。

『全て、お前が――全部。壊したんだよ。悪魔め』

 空魔研究所の所長室――研究室とは名ばかりで、自分の家のように使っていた。帰る家は無いし、住むだけならちょうど良かった。壁一面の本棚は地震が来たら、あっという間に落ちてきそうだった。だからと言って、対策をするつもりはなかった。地震が来るよりも先に、空魔の襲撃でやられそうな気がする。僕は椅子に腰をかけながら、手に持っている端末を操作していた。そこに書かれているのは、僕が調べ上げた空魔に関する秘匿情報だ。研究所にいる者ですら知らないことがメモしてある。どうして全部公表しないのかって? バレたら不都合なことがあるから。それと、知らない方が幸せなこともあるからさ。大抵世の中は、真実を虚構で塗り固め出来ているんだ。

「色んなものを失ってきたけれど、あとどれくらい失えば、答えに辿り着くんだろうなぁ」
「知るか。そんなことより、ミュオソティスの位置は分からないのか」
「……彼女は知られたくないみたいだからね。このまま、ひっそりこの世から消え去ってくれたら、一番なんだけどさ」

 所長室という名のプライベートルームなので、本来なら人はあまり入れないが今日は状況報告を兼ねて、葵が来ていた。葵は本棚に背を預けながら、険しい表情で僕を見ていた。葵は僕の子どもだ。嘘じゃないよ。ちゃんと血の繋がりはあるよ。
 けれども、無い方が幸せだったかもしれない。生まれてこない方が良かったと言うよりも、最愛の人――玲菜の方だけ継いでくれたら良かったという意味でさ。なんせ、僕は半分空魔だからね。でも、幸いなことに葵は空魔として生まれることは無かった。正真正銘普通の人間で、空魔の血はほとんど継いでいない。何だかんだで、親としては元気に育ってくれてよかったと思うよ。なーんて、本人に言ったところで、一ミリも伝わらないけれどね。僕は葵に好かれてないからさ。それどころか疎まれている。やったことを考えれば当たり前だけれどさ。

「お前たちは繋がっているのに、互いの位置分からないのか」
「繋がっていると言ってもね、鎖に繋がれた奴隷さ。ミュオソティスの方は把握しているかもしれないけれど、僕の方はさっぱりだ」

 僕はミュオソティスと出会ったときから、今までずっとリンクしている。ミュオソティスが死ねば僕も死ぬ。空魔になって、簡単に死ねなくなってから、僕は最良の終わりを求めていた。空魔が全て消えて、自分も消えてなくなれば一番だった。これだけはずっと変わらない信念だ。とはいえ、現実はかなり厳しい。空魔の親玉であるミュオソティスは顔を出さないし、尻尾もつかめない。
 しかし、空魔の被害だけは増えていく。有用な情報がこれ以上得られないとなると、こちらから何かアクションを起こすしかない。藪蛇になったら最悪だけれど、硬直状態も好ましくない。

「僕らが何やっても、彼女にはノーダメージだろうし。彼女に動いてもらうしかないかもね」
「……紫苑か」
「ミュオソティスも、どっちもね。傍観者を引きずり出すにはちょうどいい。何せ、ミュオソティスの力に触れた、貴重な人間だからさ」

 月宮紫苑――一か月前くらいにエンプティに入った少女だ。彼女の特徴を一つ上げるとすれば、痛みを感じない体質。本人も気付いていなかったらしく、ここに来てから気付いたらしい。最初はこうではなかったと、彼女は言う。大方、あの場にいたミュオソティスが何らかの処置を施したのかもしれない。
 それにしても、紫苑をすぐに保護出来たのは本当に偶然だったな。ちょうど僕は河川敷に来ていた。空魔なのか不明だったけれど、大きな反応があったらしくて、直に足を運んだのさ。そうしたら、久しぶりにミュオソティスの姿を見かけて、少し驚いたね。向こうは気付いて無かったようで、都合が良かった。
 その後は空魔らしきものが出現したものの、ミュオソティスと共にいなくなって、紫苑が倒れていた。
 その後、紫苑に事情を聞くも、何も覚えていないの一点張りだった。嘘を吐いている様子もなく、彼女はひたすら戸惑っている様子だった。それもそうだ。いきなり、空魔研究所に連れてこられて、説明されて一発で理解出来る人間は早々いない。
 ただ、ミュオソティスに繋がる手がかりとして、何としても手元に置いておきたかったので、彼女の両親へ空魔に殺されたと報告して、親元から引き離し、違和感を残さないように調整も施した。あまり褒められた内容ではないので、詳細は省かせてもらうよ。

「それで、紫苑の様子はどうさ?」
「……別に。変わった様子は無い、と思う」
「そう。死なないように注意してくれよ。死なれたら困るからさ」
「あぁ、分かってる」

 ちょっと歯切れが悪いような気がしたけれど、深くは追及しなかった。彼女に関しては調べてはいるけれど、謎が多いからね。いざとなったら、僕がつついてみるのもいいかもしれない。とんでもないことになるかもしれないけれど、それはそれで面白そうだ。

「後は……特に何も無いから帰っていいか」
「あぁ。今日もご苦労様」

 僕が労いの言葉をかけた後、何の反応も見せず無言で僕の部屋から出ていった。僕は別にそういうのにこだわりがあるわけじゃないから、いいんだけど。何とも言えない距離感だなぁ、と思う。上司と部下のはずなのに。これだと、反抗期の息子みたいだな。

「こういう時ぐらいしか、肩の力が抜けないからちょうどいいけどさ……」

 何だかんだで、葵と話している時が一番落ち着くんだ。葵が一番、僕のことを分かってくれているだろうから。きっとこれは、同じ痛みを抱えている者にしか分からない感情だ。それでいて、僕たち親子を繋ぐ糸でもある。この糸はミュオソティスにも切れはしない。絶対に切らせはしない。

「とはいっても、僕がどうにか出来る範囲を超えすぎなんだよ。人間だったらまだしも、それ以上とか勘弁して欲しいよね……玲菜」

 傍らにあった写真を見ると、懐かしい記憶が蘇る。記憶というよりも、悪夢に近い現実。到底忘れることが出来ない、夢のような世界での御伽話――あの時のことは、今でも覚えている――僕に殺された玲菜はひたすら笑っていた。葵は怯えていた。僕は何が起こったのか分からないまま呆然としていた。

 榠樝が駆け付けてから、全てが壊れたのを察したんだ。

 思い出と呼べるものはたくさんあるけれど、それが本物だったのか未だに僕は不安になる。ミュオソティスから、先祖からかけられた呪いが幾重にもなって僕を縛り付ける。
 だから定期的に思い返すようにしている。この思いは僕の真実で偽物じゃないって、胸を張って言えるように――

「あれ、今日もいらっしゃるんですね。一体何が始まるのでしょう?」
「さてねぇ」

 空魔研究を進めるために、僕の親が経営している星瑛大学に学部開設した時期だった。空魔の研究とかわけ分からんものを、大っぴらにやるわけにはいかないので、最終的には心理学などを付けて隠れ蓑にしたけれど。でもって、特定の生徒しか入れないようにした。
 玲菜とは開設準備中に出会った。彼女が後ろからぶつかってきたのが始まりだった。最初はそこで、少し話をしただけ。
 それで終わりかと思ったんだけれどさ、終わらなかったんだよ。最初に仲良くなったのは榠樝だったかな。榠樝は生徒と間違われたようで、面白そうだったから何も言わずに眺めていたさ。本来なら入れないような場所だったけれど、注意するのも面倒なので放置していた。まだ、生徒はいない時期だったからね。
 きっかけはある日の午後――地下に作った教室に僕らはいた。僕と玲菜の二人しかいない。榠樝はいろんな場所を巡って、空魔に関する情報の根回しなどをしているので、いつもいるわけじゃない。僕は研究所の職員から使える人材を定めている最中だった。
 学部として開設をしたけれど、実際は何もしていない空白期間だった。募集はかけている最中だ。どれくらい入ってくるのかは不明。こんな自由なのも、僕の親が経営しているから、というのはまた別の話だ。
 そんなこんなで、玲菜は何しに来たのかと言えば、榠樝に興味があるから来てみたと言っていた。
 でも、実際にいたのは僕だった。玲菜は帰るかと思ったら、僕に話しかけてきた。

「あの……ここでは何を学べるんですか?」
「何だと思う?」
「全く情報が無いから分かりませんが……ここは心理学とかに力を入れているから、そういう系統ですか?」
「心に関する学問って言うなら、ある意味間違いじゃないんだけれどさ……」

 軽くあしらっても良かったけれど、僕はその選択肢を選ばなかった。玲菜の根気に負けて、僕は自分がやろうとしていることを説明した。彼女は笑いもせず、真剣に聞いてくれた。

「よく分かっていないんですけど、空魔とは心の病のようなものなんですか?」
「うーん……常識に当てはめたらそうなるかもね。傍から見れば、心を病んだ結果にしか見えないからさ」

 だが、心の病で片付けられるのなら、僕だってここまでしない。空魔という存在は人間が思う以上に、常識を軽々と超えた存在である。その気になれば、世界を滅茶苦茶に出来るほどの脅威だ。実際、過去を見ても空魔と思わしき存在が世界に影響を与えていた。
 そもそも、生み出しているミュオソティスが、規格外の存在だから、それくらいおかしくないんだけどさ。

「細々と研究はされているけれど、どうにも信じられないっていう人が多くて、オカルト的な話になりやすいんだよ。今は数が少ないから認知されにくいけれど、多くなったときに対処方法を確立しておかないと、手遅れになる」

 ミュオソティスが何をしでかすか分からないからね。彼女を拒絶した以上、逆恨みされても文句は言えないし。というか、何でこんな目に合わないといけないんだか。と、ため息を吐くと玲菜が首を傾げていた。

「どうかした?」
「いえ。そういう存在がいるのは分かりましたが、先生はどんなきっかけで知ったんですか? あまり一般では出回っていなさそうな話らしいので」
「…………」

 しばらくの間、沈黙が続いた。そもそも玲菜に、空魔のことを話すつもりは無かったんだ。僕の身の上などもってのほかだ。空魔などただでさえ、重い話なのにこれ以上話しても、どうにもならないだろうから。色々考えていると、玲菜がパッと手を叩いた

「あっ! これから講義だった! 先生またね!」

 玲菜は慌ただしく、駆け足で出ていった。帰っていく際の彼女の表情はとても、眩しかった。初めてまともに話したけれど、僕とは程遠い世界にいるような子だと思う。なんだかなぁ、と思いながら端末を弄っていると、入れ違いで榠樝が入ってきた。
 
「びっくりしましたよ。玲菜がここから出て来たんですもの。一体、何をしていらしたのですかぁ?」

 からかいながら榠樝が問いかけてくるので、僕は何事も無かったかのように事実を述べた。

「彼女は君に会いに来たそうだけれど、いなかったから話し相手になっていたんだよ。榠樝、友人は大事にした方がいいのさ」
「あら、それは悪いことをしました。で、どんな話をしたのですか?」
「空魔の話をしたよ。目の前に証拠も無いのに信じてくれる人を、初めて見たのさ」
「玲菜なら信じるでしょうね。ちょっと抜けているけれど、なかなか見どころがあります」
「高く評価しているように聞こえるのさ」

 榠樝は笑っていたが、否定はしなかった。榠樝がここまで言うような人間はあまりいない。彼女は自分の人生に色を付けてくれるような人を求めていたからね。興味ないものには、情をもたない。榠樝の心を掴むとはなかなかだ。

「それでどうするんですか。この先……」
「あぁ……」

 この先、この未来――空魔がいない世界を作るということ。この世から空魔を消し去ること。何よりも僕が願うのは、ミュオソティスの消滅。どうすればいいのか、答えだけ分かっている。とにかく、空魔を根絶やしにするしかない。希望も絶望も全てそこにある。僕はこの先、他者を利用しながら、ずっと独りで生きていくのだと思っていた――

「空魔の話もっと聞きたいです!」

 玲菜はその後も、たまに会えば会話をした。もうその頃には学科は始まっていたので、話す機会は少ないけれど、玲菜は空魔の話に耳を傾けていた。興味本位かもしれないが、こうやって知ろうとしてくれる姿が嬉しかったんだと思う。
 それと同時に、彼女が何を考えているか――少しだけ知りたくなった。
 けれども、結局心は見なかった。無意識に拒んでいるようだった。見てしまったら、何かが崩れるような気がしたから。それから玲菜は卒業した。臨床心理士の資格がどうのこうの言っていたから、うちの大学院に進むのかと思った。その方が良かったと、僕は思うんだけれど、他人の人生に口出すつもりはない。彼女が選んだのなら、何も言うまい――と綺麗にまとめられたら良かったのだけれど、そうもいかなかった。

「先生。なんか手伝うよ! 雑用でも何でもやるよ!」

 嫌でも前向きな気持ちにさせる溌剌とした声と共に、僕が使っている研究室の扉が開いた。誰も入らないようにしているのに、教えたのは榠樝だろう。僕は頭を抱えた。

「……頼んでないけれど。君さぁ……臨床心理士になりたかったんじゃないの?」
「そうなんですけど……これでも、色々考えたんですよ。私は昔お世話になったカウンセラーの人に憧れて目指そうと思ったんですが――」

 彼女は両親を事故で失った際に、塞ぎこんでしまったようでそれをどうにかしたのが、当時彼女を担当したカウンセラーだったという。感謝の気持ちと憧れを抱いて、玲菜は勉学に励んだ。玲菜の学力は風のうわさで聞くと、かなり優秀らしい。それなのに、棒に振ってまでこっちの世界に来るとは、どういう心算なんだろう。

「空魔は資格を取ったところで、どうにもならないんでしょう」
「いや、そうだけれどさ。君には関係ない話だろう」
「関係なくないです! 話を聞いたからには関係大ありです! それに……」

 関係あるかないかは置いといて、玲菜はとにかく僕の目を真っ直ぐ見つめてくる。逸らそうにも、逸らせなかった。

「先生、辛そうなんだもの。空魔の話をしているとき、苦しそうに見える。勘違いだったら謝るけど、そうじゃないなら放っておけません。私は自分の将来よりも今、目の前で苦しんでる人の力になりたいから」

 正直、今の僕には理解出来なかった。そこまでする必要があるのかと問いたくなる。そういったところで、引くような子じゃないのも分かっている。僕は目を伏せた。

「……君の考えは分かったけれど、出来ることなんてないよ。出来ていたら、とっくに解決しているさ」
「だったら、一緒に考える。どうにかしたいからこの学部作ったんでしょ?」
「君は編入出来ないよ。ここは――」

 と、言いかけて口をつぐんだ。ここは学部を名乗っているが、本当の目的は空魔研究所への人員確保だ。空魔研究所では、研究のほかに討伐業務も行っている。戦闘員は研究所が表向きにやっている孤児院から補充しているが、研究者はそういうわけにはいかない。表立って募集するよりも、教育機関である程度知識を付けてもらって、そのまま入れる方が即戦力になる。
 ただし、入学資格は入学試験に合格した高卒のみ。空魔を知る機会はほとんどないかもしれないけれど、ゼロというわけではない。空魔という存在へ誘導するように、未知の生物に関する情報サイトを運営していたりする。要はちょっとした宣伝だ。情報サイトでそのような存在がいるということを、匂わせ研究している場所があるという情報を流す。後は釣れるのを待つ――結果はまずまずだ。という、内容を玲菜に話すべきか悩んだ挙句、止めた。

「……とにかく、手伝ってもらうことは無いよ」
「そうなんですか。じゃあ、榠樝はどうなんです? 人手不足だったりしませんか? 他に教授とかいなさそうですけど」
「うーん、私としてはいてくれたら有難いです。なんせ星影”所長”は人使い荒いですからね~」

 玲菜の質問に流れるように答える榠樝。いつの間にかいたのか、全然気づかなかった。それよりも、しれっと所長とか言っているし。最悪だ。

「……しょちょう?」
「君さぁ、僕に何か恨みでもある?」
「無いと思う方がおかしいのでは?」

 どうやら、榠樝は相当鬱憤が溜まっているようだった。そもそも彼女はこの国の出身じゃないし、確かに無理させ過ぎたかもしれない――と一瞬思ったけれど、そんなことで根を上げるような人間ではない。

「ここ、そんなブラックなんですか」

 玲菜は玲菜で疑いの目を向けてくるし、どうしようもない。

「……そりゃそうだよ。わりと生死に直結するから」
「どういうことなんですか?」

 僕は諦めて、玲菜に説明することにした。この学科の目的と僕が抱えている研究施設も含めて――空魔という存在がどのようなものかを。玲菜は相槌を打ちながら聞いていた。

「なるほど。って、やっぱり人手が足りないってことじゃないですかっ! 私の出番ですね!」
「だからといって、君が人生を棒に振ってまでやるものじゃないさ」
「振るつもりはありません。後悔もしません。私がやりたいことをやるだけです!」

 目をきらきらさせながら意気込みを語る。玲菜の決意は揺るぎないものだった。どうしてここまでするのか今は理解出来ないけれど、いつか分かる日が来るのだろうか。

「そこまで言うのなら……もう止めないよ。ただ、何があっても自己責任ってことで」
「やった!」

 玲菜は心の底から喜んでいるようだった。何が嬉しいのかさっぱりだった。もっと、厳しく徹底的に潰した方が良かったのかもしれない。実際、生半可な気持ちで来られても困るし。それでも、受け入れたのは、もしかしたら彼女が何かを変えてくれるかもしれないと、僕が心のどこかで思ったから――なんて、本人には言わないけれどさ。

 それから、玲菜は僕の研究を甲斐甲斐しく手伝ってくれた。彼女は手を抜くことは無かった。ドジな部分もあるけれど、やって欲しいことは確実にやってくれる。というか、榠樝よりも仕事している気がする。榠樝は楽になったと大層喜んでいた。おいおい。

「バイトは色々やっていたので、これくらいは朝飯前です!」
「いやぁ、助かります。サボ……息抜きが出来るようになりましたわ」
「元からサボって、色んな場所ふらついていたよね?」

 思えばこの辺りが僕にとっての穏やかな時間だったと思う。研究所を行ったり来たりして、日々を過ごしていたけれど、こっちにいる方が楽しかった。

 
 これ以上、何も望まなければ幸せな時間で終わったのかもしれない。

「そういえばさ、竜胆さんは家とかに帰ってるの? ちゃんと寝てるの?」
「借りてる場所はあるけれど、あまり帰ってないよ。めんどくさいし、寝るならどこでも寝れるし」
「えぇ~」

 現在玲菜は研究助手として、雇っている形だ。空魔研究は慈善事業じゃないし、金はちゃんと払っているさ。先生呼びしなくなったのは玲菜曰く
「正直、最初から先生っぽくないと思ってたんですよね。でもでも、教授感もないですし!」らしい。研究所に務めているわけでもないので、所長とも呼ばなかった。何でもいいんだけど、無自覚に失礼なのは、普段から接してなければ分からなかっただろう。とはいえ、正直僕自身も誰かを導くのは柄ではないと思っていたから、何も言わなかった。
 
「じゃあじゃあ、食事はどうしているんですか?」

 話は戻るが僕は今、玲菜にしつこく私生活を聞かれている状態だ。僕がここには何でもそろっているとか何とか言ったら、住居の基準を満たしていないとかどうのこうの、ややこしい話になってしまった。

「……適当」
「良くないですよ。身体に悪いです。私が作りましょうか?」

 食事――食べる行為は僕には意味の無いことだった。食事はとらなくても生きていけるからだ。あれ以来、ミュオソティスに出会って、半分空魔にされてから、何を食べても味がしなかった。最初の頃は苦痛だったけれど、今ではもう慣れた。慣れたというより、自立して食べなくなっても、文句を言う人間がいなくなったから。半分だけ空魔になった僕は歪な形をしている。空魔は普通人の心を喰らって生きるというが、僕は別にそういうことはなかった。かといって、食事が必要なのかと言えばそうでもない。人並みにお腹は空くけれど、空腹になったところで死ぬことはない。
 ただ、ミュオソティスと繋がっているだけ――鎖が強固なだけ。このことを知っているのは榠樝ぐらいだ。これを果たして人間と呼んでいいものか、そして空魔と呼んでいいのか――中途半端な存在だった。

「……気持ちは嬉しいけれど、いいよ」
「理由があるんですか?」
「どうしてそう思ったのさ?」
「何か思うところがあるとき、少し目線が下を向くんです。癖……なのかな」

 無意識のうちにやっていたことだろう。彼女に指摘されたところで、自分の気持ちが分からなかった。この身体はミュオソティスと繋がっているので、感情が本当に自分のものであるという自信がもてなかった。

「思い違いならいいんです。でも、本当に困っていることがあるなら、いつでも相談に乗ります。私に解決出来ることじゃないかもしれませんが、話を聞くことぐらいは出来ます。気が向いたら言ってくださいね。それじゃあ、今日はこれで失礼します」

 玲菜は優しく微笑みながら、部屋から出ていった。僕はというと、ぼんやり天井を眺めていた。どこか胸がざわつく感じがする。ミュオソティスと会ったときのような――でもあの時とは少し違う悪くない感覚だった。

「相談する気が無いなら、一生悩み続けるしかないでしょう」

 榠樝は本を手に持ちながら呟く。そういえば、榠樝が部屋にいることをすっかり忘れていた。

「言ったところで、馬鹿げた話としか思えないよ」
「そんな馬鹿げた話に付き合っている私は阿保ということですか?」
「いや、そこまで言ってないって。君のことは信頼しているからさ。色の無い世界を見る者同士――」

 そう言ったところで、榠樝は本を閉じた。僕の言葉を打ち消すように。

「生憎、私はもうそこから脱しましたので」

 灰色の世界はもう存在しないと、榠樝は言う。彼女の瞳は嘘を言っていなかった。僕としては喜ばしいことで、そして羨ましい限りだ。

「そうだったんだ」
「灯台下暗しですね。世界が広すぎて見失っていたようです」
「案外、近くにあるんだね」
「えぇ。だから、貴方も探してみるといいですよ。空魔とかいうワケの分からない存在に振り回され過ぎなのでは? 一度さっぱり忘れてみるのもいいんじゃないですかねぇ」
「……頑張ってみるよ」

 この時はそこまで本気じゃなかった。口先だけの言葉でしかなかった。本当に出来ると微塵も思っていない。呪いは榠樝が思うよりも強固なもので、簡単に忘れられるものじゃない。そもそも、忘れるなという呪いなんだからさ――他を見るなという、愛の呪い。記憶の中にこびりついて離れない。玲菜が助手として出入りするようになってから、彼女とは距離が近くなり少しだけ、心を許してしまった。ぽろっと零れた、僕の本音を玲菜は出会ったときのように、真剣な表情で聞いてくれた。
 
「辛い思い出があるのなら、その分楽しい思い出をたくさん増やせばいいんです。色んな幸せが、世界には溢れていますから!」
「その分不幸も溢れている」
「不幸もプラスにすればいいんです。たとえば、私と竜胆さんは空魔という存在がいなければ出会うことはなかった――でしょう?」

 玲菜は曇り無い瞳で微笑む。彼女は僕との出会いを不幸だとは言わなかった。プラスもマイナスも全て、自分の糧としていけるような強さが彼女にはあるのだろう。挫けたとしても、立ち上がることの出来る心。カウンセラーのおかげなのかな。ここまで言われると、僕も笑うしかなかった。

「……プラスになっているかは分からないけれどね」
「そんなぁ。そういうこと言うんですか……酷いです。榠樝に言ってきます!」
「冗談だよ。そんな見方もあるんだね。今の今まで思ったことも無かったからさ」
「様々な視点から、深く見るといいかもしれません。理解することも必要です。たとえ、嫌な相手だったとしても……」

 嫌な相手ねぇ。言わずもがな、いつかは向き合わなくてはいけないのは分かっている。空魔を倒すという目標を掲げている以上、ミュオソティスのことを調べるのは必要なことだ。表面的なことではなく、内面的な方も含めて、理解する必要がある。

「それに、どんなしんどいことがあっても、竜胆さんは独りじゃないんですから!」

 独りじゃない――少しだけ胸の当たりが軽くなった気がした。鎖で繋がれていたような感覚が無くなっていく。この感覚は一体、何だろうな。今まで感じたことのないものだった。まだ、自分が空っぽではないことを再確認する。
 僕はこの瞬間、温かい光に包まれているような、心地よい世界に少しだけ足を踏み込もうと思ったんだ。

『空魔研究以外にやりたいこととか無いんですか? たまには息抜きしてみませんか! 榠樝と一緒に遊びましょー!』
『今はまだ縛られているかもしれませんが、いつか解ける日が来ると思います。きっと、彼女の方も――』
『竜胆さん、好きです。幸せも、楽しいことも、苦しみも、痛みも、全ての感情……心を貴方と分かち合いたいです。永遠に……』
『りーさん……あ……し……てる』

 記憶の欠片が散っているようだった。断片的に、映し出される思い出は、映写機のように流れていく。ノイズ交じりの思い出は、過去から現在へと集約されていく。

「何だかね……本当に記憶が曖昧なんだよ。本当のことなのかって、今でも夢だったんじゃないかって……思う」

 頭に手を当てて思い出そうとすると、強烈な痛みに苛まれる。まるで、呪いのようだった。ここまで影響が及ぶなど、思いもしなかった。

「夢じゃない。お前が母さんを殺したんだ」

 葵の瞳は僕を断罪するかのように、冷え切っていた。葵が僕に向ける感情はいつだって、憎しみの中に悲しみが宿っている。こんなふうになってしまったのは、僕の責任だ。

「あぁ分かってるよ、葵。玲菜が死んだのは夢じゃない。ごめんな」
「……謝るなよ。俺に言ったって、どうしようもない。もう、取り戻せないんだ」

 この記憶が本物であるという証明――目の前にいる葵が示してくれている。今はもう、それだけで十分だった。他に何も求めない。希望の灯は消えてしまったのだから。