許されない思いというのはあるのだろうか。矛盾はあってはならないものだろうか。
自問自答繰り返しても、私の中で答えは決まっていた。
あっていいはずがない。物語のような綺麗事があってたまるものですか。都合の良いように捻じ曲げていいはずがない。
私は矛盾を抱えきれるほど強くなかった。私の心は欠陥だらけで弱かった。他人に正義を振りかざしておいてその実、正しさなど考えていない浅ましい心の持ち主――恥知らずな人間だ。
それが姫井祀莉という人間の真実である。
いつから君を追いかけていただろうか。私とは全く正反対で、対極みたいな存在だと思っていた。友達から愚痴を聞かされた時は、とても許せないと思った。ガツンと言ってやろうと思ったの。その気持ちは間違いなく真実で、少しだけ興味があったというのも、また私の中にある真実だった。最初は好奇心だった――けれども、感情は季節のように移ろっていく。変わらないことなど無かった。
私は自分の気持ちの変化に気づいていた。
けれども、迂闊に口にしたら消えてしまいそうで。
側に居られるだけで、それ以上は望まないでおこう――君のためでもあるし、私のためでもある。君は好かれるのが好きだって言ったよね。見てれば分かるよ。君は愛に飢えているんだよね。何があったのかは分からないけれど、寂しいんだろうね。独りぼっちなんだろうね。あんなに楽しそうに笑っているのに、君はいつも独りだったんだ。
無いよりはある方が良い――そりゃそうだ。愛されないよりは愛される方がいいよ。分かるよ。でも、限度があるよ。
私が欲しいのは変わらない愛だ。私だけを見てほしくて、私以外考えてほしくなくて――身勝手な感情だろうか。本当にそんなものは存在するのか――私自身が疑っているし持っていないし、与えられるわけが無かった。
愛って欲しがっているだけじゃ、成り立たないんだよ。見返りが無ければ意味が無いの。親がくれる愛だって、子供が成長して返ってくるじゃない。愛が無ければ返ってこなくなるだけ。無償の愛なんて存在しないと思うの。
でもね、それでもね。あの時、私はとても嬉しかったんだよ。君が他の女の子との関係を絶ってくれた時は踊りたいくらい嬉しかったの。それと同時にとても虚しくなったの。私のためじゃないからなのかな。誰に言われなくとも、分かってるよ。私のためじゃないことぐらい、馬鹿じゃないもの。君はそういう人間じゃないもの。あはは。
それなのに――
――どうして、ドウシテ、どうして、どうシて
柊君と相談したりして、空魔のことを知るために研究所へ入りたくて大学へ行った。どうせ、彼はついてこないだろうと思っていたら、一緒についてきたのだ。一体どういうつもりなのか、聞いてみたら何となくだと。あぁ、これですっぱり別れられると思ったのに。どうして、何故。
君と私はまだ一緒にいるのでしょうか。
『お姉ちゃん。××さんのこと好きでしょ?』
茉莉花にはずっと言われるし、私は何でいつまでも変われないのでしょうか。私の思いは許されないものなのに――どうして、私はこの心を抑えられないのでしょうか。捨てられないのでしょうか。
こんなの、呪いに等しいです、神様。
いっそのこと、消えてしまいたい――いつからか私はそう願っていました。
「最後に忠告させてもらうけど、本当にいいのかい?」
「……構いません。私はもう、辛いんです。彼を見るのも、生きているのも」
「後悔はないのかな」
私は静かに首を横に振った。後悔しても、しなくても、どうせ変わらない世界。気持ちは揺るがない。
「……どうやら、決意は固いみたいだね。せめて笑って送った方がいいのかな」
月夜に照らされて、所長は穏やかに笑っていた。この人が何を言おうが、私の中で答えは決まっていた。思い出はいつまでも美しくあってほしい――そう願うのは身勝手だろうか。私の心が壊れてしまう前に、どうにかしなくてはいけない。空魔という存在がもしも、救いになるのならきっと、どうしようもなく追い詰められた時だろう。人の心の弱さが生む存在なのだから。
どうせ死ぬのなら、私自身が何かの役に立てればと思い、人を意図的に空魔化させる実験について相談してみた。簡単に出来る実験ではないし、サンプルも少なく、未知の部分が多い。サンプルが少ないのは、簡単に言ってしまえば、必ず犠牲者が必要になるから。動物に試すことも考えたが、そもそも空魔を捕まえるのが難しいし、間近で観察してくれる人も必要だった。
だったら、自分が実験台になればいいと思って、所長に相談したのだ。私自身の願いというのもあるけれど――そこまで悪いことだとは思わなかった。所長は何を考えているのか分からないけれど、思ったよりも私の話を真剣に聞いてくれた。
結論では、人為的に空魔化させる方法はあると言った。ただし、今よりも苦しい思いをすることになるかもしれないと、忠告をしてくれた。
それでも私は答えを変えなかった。躊躇わなかった。それすら些細なことだと思えるくらいに、私の心はすり減っていた。
「命を投げ出したいって、助けた本人に言うとか……酷なことするよね」
呆れたように呟く所長。弁解のしようもない。私は以前、空魔に襲われていたところを所長に助けてもらった。
それが、きっかけで空魔について知って、研究者にまでなった。この出会いを幸か不幸か、と聞かれたら私は半々だと言うでしょう。真実を知って良かったと思えることがあるように、知らなければよかったと思うように。
「本当に、私の弱さのせいで迷惑をかけることになって、申し訳ありません。せめて、この先役立つように死にたいと思って」
「僕が言えたことじゃないけど、命は大事にした方が良いと個人的には思っているのさ」
「説教ですか?」
「そう捉えるなら、それでもいいのさ。最近の若者にはそう見えるのかーなるほど」
そういえばこの人っていくつなんだろう。若く見えるが、研究所の規模からしてそれなりに年を重ねているはずだ。
少し気になったけれど、どうせ消えるんだからどうでもいいか。
「君達の関係を見ていると昔を思い出すのさ」
「昔……?」
所長は懐かしそうに呟いた。聞き間違いかと思ったけれど、そういう雰囲気でもなかった。何を考えているのか分からないけれど、この時だけは何だか色んな表情を見せていた。
まるで、遠い過去を通して私を見ているようだった。
「少しだけ昔話してあげるのさ」
そう言って所長は、空を仰いだ。空は月が怪しく光っている。美しいけれど、今の私にはどこか不気味に思えた。
私の心の動きを知ってか知らずか、所長は静謐な空気の中、言葉を紡いでいく。
「僕にはね大切な人がいたんだよ。どういう関係なのかはご想像に任せるのさ。僕とは正反対でね、優しくて明るくて――月並みな言葉だけれど、太陽のようだった」
大切な人――友人か、はたまた恋人か。いた、という過去形からして五月七日さんではなさそうだった。聞くのは野暮だろうか。聞いたとして、どうなる? 少し考えた結果、私はあえて聞かなかった。
「意外ですね。貴方にもそういう人がいたんですか」
「そんなに意外かな」
「多分私以外の人も同じこと思いますよ。それで、その人とはどうなったんですか?」
「殺したよ」
夜風に乗せて淡々と事実を告げる所長。所帯を持っているようにも見えないし、途中で喧嘩別れでもしたのかと思っていたが、所長の口から発せられた言葉は酷くあっさりとしていて、情緒も何も無かった。所長は私の反応を窺っているのか何も言わない。冗談にしても質が悪いし、一体私にこんな話を聞かせて何がしたいのだろう。
「……笑えない冗談ですね。元気があれば激高していたと思います」
「本当に疲れ切っているんだね。今の君すごい無表情だよ。鏡見る?」
「結構です」
怒る素振りも見せられないくらい、私の心は消えて行っているようだった。鏡は最近見ていなかったけれど、他のみんなはどう思っていたんだろう。それよりも、先程の所長の言葉は本当なのか。本当だとして、どうしてそんなことになったのか。
「理由は?」
「邪魔だったから。それだけの話さ」
「最低ですね」
「最低だよ本当に……どうしようもない」
「本当に、それだけだったんですか」
「ないよ。それに理由なんて、大した問題じゃないのさ」
「どういうことですか?」
平然と言ってのける精神が私には理解が出来なかった。ちょっと前の私なら、怒っていただろうけれど、それどころじゃなかった。機械的に問いかけることしか出来なかった。そんな私の状態などお構いなしに、所長は語り続ける。
「僕と関わっても、幸せにはなれない。絶対にね」
所長の瞳はいつもと変わらないのに、何故かこの瞬間だけ、悲しみの色が映っているようだった。自嘲気味に呟くその姿は、少しだけ弱弱しく見える。
「絶対と言い切る根拠はあるんですか?」
「そういう運命だからさ」
「納得出来ません」
「君だって分かるだろう。自分では好きな人を幸せになれないって――何もしていないのに分かるだろう」
「それは……」
私はそこで口をつぐんでしまった。私が言える台詞ではない――言ってから気が付いた。私は運命から逃げた愚かな女。真実から目を背けた、救いようのない敗者。
「出来るのならありのまま思いを伝えればいい。それなのに君はしない。君は自分の心を疑い、拒絶されることを恐れているんだ。もしも、自分が運命の人ではかった場合、君に待っているのは地獄かそれとも……」
頭が痛くなる。私は耐えきれずにその場にうずくまっていた。痛い、いたい、イタい、心が悲鳴を上げる。
「やめてください!! やめて……もう、いい、です。私は、知りたくない。聞きなくない」
「僕も君の気持ちは分からなくもないよ。僕もさ、たまに自分の気持ちが本当なのか、疑わしいと思うのさ。自分の存在すら疑ってしまう時がある」
本当の自分はどこにいるのだろう。私が私である証明って、何をもって? 私の思いは真実、虚構?何かが音を立てて割れていく。
「僕はそれを証明するために戦っているようなものさ。だからこそ、空魔はこの世にいてはいけない。アレの存在を許してはいけない」
「所長、貴方は」
とても嫌な感じがする。非科学的だけれど、間違いなく私は踏み入れていけない場所にいるような気がした。
「君は空魔に詳しいけど、結局のところ表面的なものにすぎない」
これ以上何があると言うのよ。何も無い空魔に何が――
「空魔の正体は単純。ある少女の絶望さ。忘れられるのを恐れた哀れな女が、自分を世界に刻みつけたいと願いから出来たもの。否定しつつも、心の奥底で望んでいたこと。だから空魔は本能で動く」
誰のことを言っているのだろう。私のことかと一瞬思ったけれど、違う。原初の話をしているのだ。直観的にそう思った。何故、この人はそんなことを知っているのだろう。断言するのだろう。
「人間から心を抜き取るのはもちろん空魔で――」
空魔が人を喰らう――変わりない真実。
「君の目の前にいるのは、」
風が一層強く吹き抜けていく。葉擦れの音と共に所長の声がよく響いていた。
「空っぽの空魔さ」
私が顔を上げた瞬間、胸を何かが貫いていった。何も見えなかった。痛みは無くて何もかも溶けていくような感覚だけが残る。所長が何を言いたいのか、はっきりと分かった。理論とかそういう問題じゃない。人を空魔にするのは、いつだって空魔だ。負の感情を持っただけでは、空魔にはならない。少し考えれば分かるはずだ。
「そういうこと、ですか……空魔を研究するトップが空魔。なら詳しいでしょうねぇ……あは、は。それじゃあ、私は、私たちは一体何のために、」
「倒してもらいたいのは本当さ。そのために組織としてある方が活動しやすいし、情報が集めやすい。僕も全て分かるわけじゃないからさ」
「抗いたいなら、自分でやればよかった、のでは」
私の心がどんどん失われていく。言葉が消えていく。視界が霞んでいき、立っているのも限界だった。気持ち悪い、世界が回る。痛い、苦しい。息が出来ない。
「出来ないんだよ」
ぐらりと体が傾いたが、誰かに支えられた。近くにいるのは所長しかいない。
「え……」
会話をしているのに全く頭に入ってこない。思い出が次々に映し出されては消えていく。
まるで、深い穴に落ちているような感覚だった。
「僕には彼女を殺せないから、誰かにやってもらうしかない」
彼女? 彼女……心無い言葉を投げつけてしまったあの子はどうなってしまった?
「一体、誰が終わりを告げるのだろうか。心は分かっても、先は分からないのさ。だからこそ、介入の余地があるわけで……」
終わり、終の話。私はどうして、こうなったんだっけ。そうだ、苦しかったんだ。痛かったんだ。本当は消えたくなかったよ。笑って生きていたかったよ。君の側にずっといたかったの。けど、消えた方が楽だし私には相応しい末路だと思ったの。
「言いたいことは、生きているうちに言った方がいいのさ。よく分かっただろう」
所長の声が遠くなっていく。私の頭の中は激しい渦が巻いていた。様々な記憶が掘り起こされていく。嫌でも、私が拒んでも想起される私の醜い部分。
『祀莉は好きな人いないの? 気になる人とか』
『いないよ。多分きっと、これからもいないと思う』
『愛されたくないの?』
『真剣に愛してくれる人ならいいかな』
『どうやってそういうの見極めるんだろうなぁ、人って不思議だ。運命って言葉があるけど、俺はあまり好きじゃないね。決められているようで、見透かされているみたいで、その程度で片づけられるのも癪だなぁって……』
『ロマンチックだと思うけどね。そういうの何だかんだで憧れるな。子供っぽいかもしれないけど、夢を見るくらいならいいじゃない?』
私の運命は君だった。君はどうだったんだろうね――答え……ちょっと怖いけど聞いてみたかったかな。
鮮やかな走馬灯が私の中を駆け巡る。今でもずっと忘れられない、脳裏に焼き付く惨劇。あの時の光景は鮮明に覚えている。私の友達が空魔になった瞬間は今日みたいに月がとても輝いていたの。遅くに呼び出された時、あの子はすでに何かおかしかった気がする。目が虚ろで、どこを見ているのか全く分からなかった。きっと、もう人ではない何かになってしまっていたのだろう。
『祀莉ちゃん、祀莉ちゃん……マツ、リちゃん、ねぇ……好きなの』
『ごめんなさい! 私は――』
『知ってるよ。蘇芳君が、好きなんでしょう? 分かるよ、見てれば分かる。ずっと祀莉ちゃんのこと見てたもの。あははは』
『なっ――』
『辛いね、祀莉ちゃん。叶わない思いを抱いて、ずっと見続けるのは、苦しいでしょ? 蘇芳君は祀莉ちゃんだけを見てくれないもの』
『うるさいうるさいうるさい!! 何が分かるのよ! 人の気持ちが分かるわけないじゃないッ! 貴方の気持ちとか知らないし、分からない! 理解もしたくない! 気持ち悪いのよ……私のことが好きだって? そういう目で見てたとか、あり得ない。お前は友達なんかじゃないわ! 私の前から消えてよッ!!』
『痛いよ、酷いよ、祀莉ちゃん。どうして、そんなこと言うの』
『私は貴方の思いに答えただけ。好きでもないのに好意なんて向けられても迷惑だし、大体人の心を踏み荒らして決めつけるような人間、友達としても願い下げよ。不愉快だわ』
『あ……あぁ、アアあああアアあああ、ああああッ』
『……え、何、どうし――』
『ふふっ。やっぱニンゲンっておバカさんね! 醜いわねぇ。きゃははッ!』
月夜に聞こえる少女の不気味な笑い声。血のように赤い大きなリボンをした和服の少女は、頭を押さえてうずくまる彼女に語り掛けると、その場を離れていった。その後、残された私は人が空魔になる瞬間を目撃することになった。目の前にいた子は人間なのに、何が起こったというの。私には止める事も出来なかった。彼女はとても苦しんでいるように見えた。彼女は思いを告げただけなのに。ただ、それだけだったのに。私はその気持ちを拒絶し、酷い言葉を浴びせてしまった。彼女の真実を汚し、貶めた。その時の彼女は、この世界の全てに絶望し破滅に向かうような――
「あ、あ……あぁ、あぁああア、ああ……ああ、」
懐かしくも、忌まわしい過去が掘り起こされる。なんだ、今の私と変わらないじゃない。
あの時の貴方が今ここにいるのね。報いというわけね。これも、運命っていうの? 皮肉なものね。
私が私を殺したんだ。心と体がバラバラになっていくみたい。辛い痛い苦しい、助けて。臓器を無理やり引きずり出されているようで、痛い。
あの時、貴方は無理やり空魔にされたのね。記憶の隅へ無意識に遠ざけてしまっていたの、ごめんなさい。空魔って何なのよ、本当に狂ってるわね。
「……少なくとも、君にとっては救いになったんじゃないかな。君が望んだことだ」
救い、ねぇ。確かにね。空魔がいなかったら、どうなっていたんだろう。君を殺してたかもしれない。それか私が自殺していたかもしれないどちらにせよあまり変わんないね。どっちが良かったんだろう。
これで良かったのかな。
もしも、ちょっとだけ自惚れていいのなら君が来てくれると嬉しかったりして。空魔になった私に気づくのかな。
「僕は、君が選んだ道を見守るだけさ」
あーでも、気付いたとしても、殺すしかないんだよね。それでもいいかな。ちょっとは苦しめばいいんだ。
「さよなら祀莉。君に安息が訪れることを願うよ」
色々考えたけど、やっぱ君にだけはこんな私を知られたくないや。矛盾だらけだし、正しい道からは外れまくってるし、無茶苦茶だね――記憶の欠片が見えたとき、私の意識は完全に昏い海の底に沈んでいった。