Pororoca

© 2018 Pororoca

Template&Material @ 空蝉

My Universe

 遥か遠くに見えた青い星に焦がれていた。

 何故か、あの星を見ると郷愁と呼ばれるような感情を覚える。

 誰もがおかしいと嘲笑い、狂っていると石を投げる。

 それでも、ずっと憧れを抱いていた。
 きっと、自分たちの故郷には存在しないモノがあったからだろう。それが何か、自分にはまだ分からなかった。

 青き星が消えてしまう前に――全てが還るその時までに――見つけなくては。
 この星にある『答え』を――



「好きです! 付き合ってください!」
「……ごめん」

 告白から数秒で撃沈。勝ち目が少ないことぐらい、分かっていた。
 それでも、もしかしたら――という甘い希望を勝手に抱いたのは他ならぬ自分だ。相手は何も悪くない。

「はぁ、割とダメージくらうものね……」

 夏休み直前――無残に散った遠崎愛果(とおさき あいか)は一人虚しく帰り道を歩いていた。
 告白した相手は違うクラスの男子だった。女子人気はある方だと思われる。顔が良いだけだったらそこまででもないが、人当たりの良さから、男子女子問わず好かれていた。愛果は遠巻きにずっと眺めていた。幼稚園の頃から、今の今まで学校が同じというある種の奇跡が勘違いさせたのかもしれない。愛果は少しずつ、意識していくようになった。向こうから話しかけてくれて、極端に一方通行的という状態ではないはずだった。今の漠然とした世界の住人から、何か変わればと淡い期待を抱いた。
 その結果はご覧の有り様である。
 
「はぁ。黒い物体も見えるし、最悪」
「人の前を素通りしながら、最悪なうえに不吉とは、最低なヤツだな。そんなだから玉砕するんだ」

 面倒なので無視しようとしたが、愛果の進路を塞ぐ形で、目の前に立たれた。倒さないと先へ進めない敵のようだった。黒髪お下げの少女は不満そうに、文句を垂れる。

「じゃねーよ。気付いてただろ」

 愛果の前に立ちはだかったのは氷見灯莉(ひみ あかり)。愛果とは同級生にあたる。趣味は人間観察と占い。本人はミステリアスな女性オーラを出していると思っているが、周囲からは不思議ちゃんという認識が定着していた。家も近いので、半ば腐れ縁状態だった。

「何なの? また人間観察とかいう、拗らせた趣味やってんの?」
「観察じゃない。占いの修行しているだけだ」
「アンタの占い当たんないじゃん。今日が良いって言ったから、告白したのにフラれたんだけど。いつになったら結果出すの?」
「初めてウチの占い使ったくせに偉そうだな」

 灯莉は不服そうにするが、占いの的中率は微妙だった。それでも、占い好きの女子には一定の人気がある。結果を気にしなければ、おまじないくらいの効果はあると思われているのかもしれない。

「当たるも八卦当たらぬも八卦……気にすんな」
「気にするわ。私の運命かかってるんだけど!」
「うわ、必死だな……仕方ない。哀れなお前のために占ってやるよ」
「間に合ってるから。百中出来るようになったら言って」
「百中したら占いじゃなくて未来予知だ。ほらほら場所を移動するぞ。占ってやるから元気出せ」

 愛果は半ば強引に連れていかれた。灯莉なりに、気を遣っているのは伝わってくるが、それにしてもやり方が滅茶苦茶である。灯莉に連れてこられた場所は学校の近所にあるカフェだった。灯莉は入るなり、愛果のことなどお構いなしに飲み物を注文する。仕方ないので、愛果も頼むことにした。

「これ奢らないといけないやつ?」
「ウチの奢りだ。占いの練習台になってもらうかわりだ。試したいやつがあってな……」
「練習台って。もういいや、好きにやって」

 愛果の軽口も気にせず灯莉はタロットカードを黙々と広げていた。灯莉が試したいというのは、タロット占いだった。普段は水晶や、ペンデュラムを使っているので珍しい光景だった。占いを使用していないのに、何故知っているのかと言えば、たびたび占いの練習台になっていたからである。愛果から灯莉占いの依頼はしたことはないが、練習台としてなら何回も占ってもらっていた。実は何回か当たっていたこともあるが、言うと調子に乗りそうなので申告はしていない。

「あ、やっべ。カードが足りない……まぁ、何とかなるだろう」

 何やら不穏な呟きが聞こえてくる。カードが無くてもタロット占いというものは成立するのだろうか。好きなように、とは言ったがここまで雑な扱いをされると、さすがに黙っていられなかった。

「……聞こえてるんだけど」
「適当に選べ」
「はいはい」

 灯莉は全く気にしていない様子だった。そんな灯莉の堂々とした態度に、愛果は呆れながらもタロットを引いた。タロットには丸い輪のような絵が描かれている。
 引いたカードを灯莉に見せると、うんうんと唸った。

「まぁまぁ、いいんじゃないのか。運命の輪の正位置。運命的な出来事が起こるかもしれないし、起こらないかもしれない」
「どっちだよ!」

 釈然としない答えに思わずツッコミを入れていた。練習だろうが気になるものは気になるのだ。

「良い出会いがあるんじゃないかね」
「具体的にどんな出会いがあるの?」

 しばらく、灯莉はカードを見ながら考えているようだった。良い結果でも悪い結果でも、愛果は信じるつもりは無いので、黙って待っていた。

「……宇宙の。コレにはビッグバンくらいの意味がある」
「適当に言ってない? つか、ビッグバンって何が始まるのよ。どういうこと?」
「ざっくり言えば、正位置の場合はチャンスや運命的な出来事、幸運が訪れるかもしれないな」

 運命の輪のカードをひらひらさせながら、灯莉はのんきに頼んだアイスココアを飲んでいた。愛果が首を傾げていると、灯莉は悟ったように語る。

「占いはあくまでも占いだよ」
「……アンタがそれ言う?」
「なんせこの運命の輪は、宇宙全ての運命を支配する法則のカード。出会いは人間より遥か遠い、宇宙にある……かもしれん」
「マジでっ!? 宇宙飛行士になるしかないって……いや、ないわ」

 愛果は注文したレモンソーダを口に含みながら考えていた。運命的な出会い――もしも、そんなものがあるのなら、少しだけ期待してしまうかもしれない。愛果はファンタジー系の話が好きだった。全く憧れが無いと言えば嘘になる。
 しかし、現実は現実だ。そんなことなど起こるわけがない。

「暇つぶしにはなったよ。ほんっと、暇つぶしにはいいんだけどなぁ」
「占いは暇つぶしじゃない。最後は自分次第だよ。どうしたいか。占いはきっかけに過ぎない」
「どうしたい、かぁ……」

 グラスの中の氷をかき回しながら、愛果は灯莉の言葉を反芻する。
 灯莉はアイスココアを飲み干し、愛果に告げる。

「とにかく、運命はいつ動き出してもおかしくはないんだよ」

 その後、愛果と灯莉は店を出たところで分かれた。占いが終わった後、特に何事も無く愛果は家路についたのだった。
 今日一日でやる事を全て済ませて、ベッドに潜り込む。

「私は……普通に、恋をしたいな」

 どうしたいか――灯莉の恋愛占いを止めなかった時点で、答えは決まっていた。積極的ではない愛果が告白したのは、自分を変えたかったから。結果は散々なものになってしまったけれど、後悔はしていなかった。

 漠然とした、取るに足りない、宇宙とは比べ物にならないくらいちっぽけな願いだった。傍から見れば下らないものかもしれない。
 それでも、今の愛果が願ったのは、普通のありきたりな恋の歌だった。



(どうせなら、神社でお願いしてみよう)

 夏休みに入った初日、散歩がてら思いたったので、愛果は神社にお参りをすることにした。占いはあまり当てにしないが、神頼みはするタイプだった。
 神社は長い階段を上った山の中にある。とくに名所というわけでもないので、人はそれほどいなかった。鬱蒼と茂る緑のトンネルを抜けると、社が見えてきた。

「……疲れたぁ。一休みしてからしようっと」

 愛果は辺りを見渡すがちょうどいいベンチがない。階段に座り込むか、一瞬悩んだが止めた。誰が見ているか分からないので、思いとどまった。

「それにしても、暑い。暑すぎる。一休みしても溶けるわ」

 休むのは止めて、愛果は恋愛祈願して真っ直ぐ帰ることにした。二礼二拍手一礼をしてから、愛果はあることに気づいた。

「賽銭入れるの忘れたっ。こんな目の前にあるのに! お金、お金……」

 必死に五円玉を探し出して、賽銭箱に投げ入れた。そしてもう一度、手を強く合わせた。

(素敵な……出会いがありますように。宇宙規模じゃなくてもいいので、世界を変えてくれるような、そんな人がいますように)

 ささやかな願いを神様が聞き届けてくれるだろうか――占いと同じように気休めでしかないことは、知っている。それでも愛果はどこかすっきりしていた。あっても無くても、これで吹っ切れることが出来るような気がした。
 帰ろうと踵を返したとき――

「え――」

 愛果は信じられないものを目にした。本来なら気付かないものだったかもしれない。視界に入らなくても、おかしくなかったが、愛果の目は奪われた。愛果の瞳に映ったのは、神社の鳥居の上に建つ人の姿だった。衝撃的だが、明らかに普通ではない存在である。一体どこを見ているのかと思ったが、目が合ったような気がした。

(絶対ヤバい人っしょ……)

 度胸試しなのか、ただ罰当たりなだけなのか。どちらにせよ、馬鹿な人間であることに変わりはないので関わらないのが正解だろう。普通に進んで、途中で鳥居を避けていけばいいだけだ。見なかったことにすれば解決だ。
 そう思って進んでいたが、鳥居を避けようと進路を変えようとした途端、突如鳥居の上に立っていた人間は普通に飛び降りてきた。

「はぁ!?」

 愛果は心の中で済まそうと思っていた声を、思いっきり出してしまった。飛び降りた人間は平然と立ち上がっていた。その後、何の迷いもなく愛果の側へ寄ってきた。

「ちょ……何なのこれ? 映画の撮影!?」
「違う」

 正体不明の人間は低めのトーンで告げる。男でも女にも聞こえるので性別は分からない。愛果はとりあえず、第一印象から少年と思うことにした。こんなダイナミックなことをする、女子がいるとも思えなかったというもある。

「そ、そうですか」

 間近で見ると、改めて少年にも少女にも見える不思議な雰囲気があった。白髪の前髪から紅い瞳が見えていた。年は同じくらいに見えたので、愛果は少しだけ警戒心が緩くなった。色々と突っ込みたいところがあるが、どうしたらいいのか――選択肢は一つしかなかった。

(帰ったらアイス食べよ!!)

 そう思って愛果は全力で駆けだしたが、途中で前に進まなくなった。代わりに伝わってくる、腕の痛み。

「……あれ?」

 腕を掴まれているという事実に気づいたのは少し経ってからだった。振り返ると、先程の紅い瞳が愛果を真っ直ぐ見つめる。愛果の腕を掴んだまま、謎めいた少年は願いを口にした。

「この世界を案内して欲しい」



「観光客?」
「近いかもしれない」

 愛果は結局、逃走することを諦め神社の階段に座って話を聞いていた。聞いた結果、少年は各地を回っているらしい。その途中で立ち寄ったのがここで、愛果とばったり出会ったという。
 少年はというと、愛果の隣に立っていた。風が吹き抜けていくが、今の季節は夏だ。暑いのには変わらない。そんなうだるような暑さの中、少年は厚手の服を着ている。明らかに異質な存在だった。

「……暑くないの?」
「ない」
「へぇ~」

 ワケありなのかと勘ぐってしまう。口ではこう言っているが、我慢しているのかもしれない。何のために? 日焼けをしたくないだけなのかもしれない。あるいは、見てはいけないものを隠しているのかもしれないので、これ以上は追及しなかった。
 それよりもさっきの話だ。愛果を引き留めた理由――

「案内して欲しいって言ってもさ、ここ何も無いよ」
「何も無くはない。人や建物がたくさんある」
「そうじゃなくって、有名な場所とか無いよ」
「知名度は関係ない。案内して欲しいだけだ」
「とは言っても、私も詳しくないよ」
「この辺りに住んでいないのか?」
「いや、住んではいるけどなぁ。詳しく説明出来るほどじゃ……」

 愛果は居たたまれなくなってきた。自分の住んでいる街を案内出来ないということが恥ずかしくなってきたのだ。全く知らないわけではないが、いきなり案内しろと言われても、街の見どころが、思い浮かばなかった。普段から散策はしているが、当たり前にある風景なので気にも留めたことが無かった。

「携帯で案内してもらった方が早いと思うけどね」
「機器で分かることは把握している。実際に目で見たい」
「それなら一人で見たら? 一人の方がゆっくり見られるじゃん」
「君と一緒に見たい」
「……へ、へぇ」

 何か裏があるのではないかと愛果は身構えるが、内心かなり動揺していた。何故、自分なのだろうか。この街には他にも人がいるというのに、どうして愛果に頼むのだろうか。

「どうして、私なの」
「君に興味がある」
「これは、揶揄われているのかな?」
「そんなことはない」

 少年はきっぱりと言い切る。裏表も無さそうな、純粋な言葉の力に愛果は白旗を上げる。

「仕方ないな。やることも……多少はあるけど、いいよ」
「ありがとう」

 嬉しいのか、嬉しくないのか分からない声音だった。それでも、感謝の気持ちは頭を下げた時点で伝わってくる。

「あまり期待しないでよ。聞かれても、答えられないかもしれないから」
「構わない。君の好きなように歩いて欲しい」
「分かった」

 謎の少年と邂逅を果たした愛果は流されるままに案内していくことになった。そこまではいいのだが、適当に歩きながらどこへ行けばいいのやらと悩んでいた。神社へ続く階段を降りてどちらへ行こうか――自分一人なら簡単に決められるのに誰かがいると、そうはいかない。好きなようにと言われると、逆に深く考えすぎてしまう。

「どうした?」
「え、あー……大丈夫。大丈夫」

 立ち止まっていることに不信感を覚えたのか、少年は愛果へ問いかける。愛果は愛想笑いを浮かべながら、内心焦っていた。大丈夫とは言ったが、何が大丈夫なのだろうか。自ら答えておいて、疑問に思う。

(何の罰ゲームだよっ。恋がしたいとか願ったけどさ~? 何か違う気がする。絶対違う。はっ、もしかしてアイツの占いマジ!? それも呪われた!?)

 うだうだと悩んでいたが、足はいつの間にか動いていた。行く当てもないまま、道なりに進んでいく。行き先も決めなかったが、ただ一つ確かなことがあった。愛果が踏み出した先は、帰り道とは逆方向だということ。



 しばらく無言の状態が続いていた。少年は後ろから少し距離を開けてついて来るので、半分ストーカーじみていた。監視されているようで、居心地が悪かった。
 愛果はピタリと立ち止まって、振り返った。

「……あのさ、後ろにいると色々と気になるんだけど隣歩くの、ダメ?」
「後ろにいたのは、付いて行きやすいから。隣がいいなら隣を歩く」
「隣がいいって言うか……これじゃ私が一緒に隣を歩きたいみたいじゃない!? 自意識過剰じゃん!」
「何を言っているのかよく分からないが、結局どっちがいいんだ」

 一人で完結出来るように自分でツッコミを入れたのに、追い打ちをかけられ愛果は撃沈していた。虚しさを回避しようとして、生き恥をかいたのは間違いなかった。
 結果、何事も無かったかのように少年は愛果の隣を歩いていた。元からそのつもりで声をかけたのだから、当たり前だった。さすがに、ここで捻くれた真似はしない。

「そういや君、名前なんて言うの? どっから来たの?」

 車の通りが少ない穏やかな道を歩きながら、愛果は少年に尋ねた。もっと最初に聞くべきことだったと思っていたが、そこまで考えられるほど愛果は賢くも無く、冷静ではなかった。どこにでもいる平凡な典型的な女子学生だった。
 だからこそ、思いもよらない答えが返ってきたら、思考が停止する。

「名前……識別名か。ノルと呼ばれている。空から来た」
「空、ねぇ。空って、上空?」

 愛果が空に向かって人差し指を上に指すと、ノルも同じような動作をした。

「正確には空よりも上だ」
「なるほど、それって宇宙ということですか?」
「そうだ」
「…………」

 ストレートに肯定されたが、どう反応すればいいのか分からなかった。ギリギリ歩みは止めずにいられたが、脳へのダメージが深刻だった。愛果の頭の中にはどこまでも宇宙が広がっていた。ツッコミ待ちという雰囲気でもなさそうなので、なおさら返答に困る。

(もしかして、普通にヤバい人か、ヤバい! ヤバイ! ヤバイ!)

 今更過ぎた。不思議を通り越して、意味不明だ。さすがに、愛果も危機感を感じてきた。軽率に引き受けるんじゃなかったと、この時少しだけ後悔していた。あまり表情には出さなかったが、少しだけ動きがぎこちなくなる。ノルはそんな愛果のことを気にも留めていないようだった。

「そういや、私の名前言ってなかったね。遠崎愛果」

 相手に聞いておいて、自分が言わないのも気が引けるので、愛果は名乗った。知られて困ることではないし、住所さえ割れなければどうとでもなるだろうと、思っていた。
 ノルは興味ないのか、終始無表情を貫いている。感情表現が苦手なタイプだろうか。そんなことを考えていると、ノルの足が止まる。

「アイカ」

 不意に名前を呼ばれたので、愛果は驚いてノルの方を見た。表情は相変わらず変わりはない。

「君が思っているよりも、この世界は美しい」

 現在、愛果たちは街路樹が並んでいる道路を歩いていた。愛果の散策コースからはかなり外れている。今まで、見たことの無い景色が広がっていた。常緑樹の緑は世界に色を添えており、何も無い場所にも光が当たっているように見えた。
 きっと、ここを歩いている人間にとっては、何でもない風景だろう。いつも目にしているだろうし、特別なことなどなにもない。

「突然、何言いだすの」
「何も無いと言っていただろう。ここの緑はとても綺麗だ」

 ノルはそう言って、落ちていた葉っぱを拾い上げ、眺めていた。何でもないただの葉なのに、ノルが手に取ると、宝物のような輝きを放っているように見えた。

「この道に限らずとも、これまで歩いてきた場所全て、素晴らしい風景だった」
「フツーじゃない? 感激するようなことでもないような気がするけど」

 愛果は首を傾げた。普通の人より感受性が豊かだと言えば、それで済む話なのかもしれないが、そういう話ではないような気がした。本当に心から感じているように見受けられる。

「変なの。まるで別世界から来た人みたい」
「……変か」
「あっ、別に悪い意味じゃないから! だって、私にはいつも通りっていうか……ここはあまり来たことないけど、そんなに感動することでもない、っていうか……難しいな」
「アイカの言いたいことは分かっている。君からすれば、この景色は当たり前なのだろう」
「そうそう。そんな感じ!」

 相槌を打つが、愛果はノルの言葉が引っかかっていた。愛果にとって、当たり前の景色――まるで、自分はそうではない場所にいたような言い方だった。
 夏の日差しが照りつける昼下がり、愛果は少しだけノルのことが気になっていた。
 それからまた、しばらく歩き続けた。気付けば人が集まる公園に来ていた。広場にはキッチンカーが止まっている。

「ちょっと疲れたから、休憩にしない? 近くに店があるから」
「店? もしかして、あの乗り物のようなものか」
「そう。初めて見たの?」
「ああいうものは無かったから」
「そっか。なら、一緒に行ってみようか」

 キッチンカーではソフトクリームが売られていた。愛果はメニュー表を見てさっさと決めたが、ノルは悩んでいる様子だった。後ろに客が並び始めたのを見て、愛果は店のオススメをノルの分として注文した。

「ごめんね。勝手に決めて」
「いや、こちらこそ済まない。色んな種類があって決められなかった。アイカがいなければ一生決まらなかったかもしれない。ありがとう」
「さすがに言い過ぎだよ」

 そう言いながら、二人でベンチに座ってソフトクリームを味わっていた。愛果が頼んだのはチョコレートでカラースプレーが乗ったもの。ノルはバニラ味のソフトクリームだった。

「美味しいな。口の中で溶けていく」
「まさか、これも初めて?」
「あぁ。情報では知っているが、実際に食べるのは初めてだ」

 愛果の中に少しずつ、違和感が蓄積されていく。確かに、ソフトクリームを食べたことが無い人間もいるだろう。その前に言った『情報では知っている』という言葉。少し変な気もするが、本当にただの観光客という可能性もある。おかしいところもあるが、そこまで悪い気はしなかった。最初はどうなるかと思ったが、今現在順調に進んでいると思われる。
 考えているうちに、ソフトクリームを食べ終わってしまった。

「どうするかぁ。進むのはいいんだけど、こんなところまで散歩に来るのは初めてだからなぁ。帰れるかな」
「だったら、来た道を戻ればいい」
「それでいいの?」
「構わない。君がどこへ行っても付いていく。君が帰りたいのなら、その後を付いていく」

 愛果の思考は一瞬だけ停止した。何らおかしいことは言っていないと、スルーしそうになったが、さすがに突っ込まずにはいられなかった。

「百歩譲って、付いてくるのはいいけどさ……あのさ」
「どうかしたか」

 ノルは愛果のぎこちない様子を疑問に思っているようだった。自分の発言について、何も気づいていなかった。ノルからすれば、普通のことを言ったのだろう。
 しかし、愛果はそうは思わなかった。何でも深読みをしてしまう傾向にあったため、聞かざるを得なかった。

「家まで付いて来ないよね?」



 さすがに、家まで付いてくると言うことはなく、最初に出会った神社付近で別れた。帰り際、一度だけ振り返ったが、姿はすでに無かった。最後に聞いた言葉は「今日は楽しかった。ありがとう」だった。表情は相変わらず変わらないものの、十分感謝の気持ちは伝わった。これだけ見ればいい話のように思えるが、そうはいかなかった。

「あー死ぬかと思った!! 怖っ」
『いちいち、しょうもないことでかけてくるな。程度の低い嫌がらせすんな!』
「嫌がらせじゃないし。大真面目なんですけど!? 大体、こうなったもアンタの呪いのせいじゃないの? 呪われたわ」
『呪いじゃない、占いだっ。出会いがあったらのならいいだろう。文句言うな!』

 愛果は家に帰るなりベッドへダイブして、灯莉へ電話をかけていた。メッセージでも済む話だったが、直接文句を言わなければ気が済まなかった。ただ、内容は文句というよりも、結果報告に近いものだった。

「で、これって占いの結果?」
『知らんわ。どうでもいい』
「ちょっと、無責任よ。責任取れ」
『何の責任だ。別にお前、嫌な気持ちにならなかったんだろ。いいじゃねぇか。切るぞ』
「あーもう! そういう問題じゃなくって! どう思うか聞きたいの!」
『どうって、ウチはそいつのことを知らない。ただ……』
「ただ……?」
『お前がいいと思ったらなら、それでいいだろうよ。いちいち人に聞くな。自分で考えろ。じゃな』
「あっ、切るなよ! 何だよー薄情なヤツだな」

 愛果は深いため息をついて、仰向けになってボーっと天井を見つめた。
 今日あった出来事を思い返していた。灯莉の言う通り、嫌な気持ちにはならなかった。それどころか、いいと思ってしまう自分がいた。全く、素性の分からない人間が気になるなど、あり得るのか。一目惚れというわけではない。まだまだ、自分の知らないことがたくさんあるだろう。それこそ、人に言えないような事情を抱えているかもしれない。

「……でもさ、よくよく考えたら、もう会わないだろうし、深く考える必要も無いか」

 悶々と悩んだ結果辿り着いた答えを、自分に言い聞かせるように呟いたが、ほんの少しだけ寂しさが残る。微々たるものかもしれないが、これだけで済むならまだ、よかっただろう――この時の愛果はそう思っていた。



 それからは、何事も無く過ごした。あの時のことは、夢だったのではないかと思うくらい、平穏すぎる毎日が続き、夏休みも気づけば折り返し地点だった。愛果は宿題を全て終わらせ、自室で寝転がりながら、天井を見つめていた。自主勉をする気も起きなかった。

「平和を通り越して、無だわ……」

 たまに散歩をしても、ノルに会うことは無かった。会わない方が気持ち的には楽だが、期待してしまう自分が嫌だった。下心が認められないでいた。

「おかしいし、関わんない方がいいって思うけど、思うけど~」

 恋を抜きにして、単純に興味がある――その思いを素直に肯定出来なかった。単純で流されやすいだけなのではないかと、思ってしまう。恋に恋焦がれるなど、馬鹿らしい。変わるには手っ取り早いから選んだだけだ――果たして、本当にそうなのか。
 
「そっか……」

 考えた結果、突き付けられる現実。愛果は結局のところ真面目に恋をしたことが無いから、自身の気持が分からないのだった。愛果は告白した相手のことを深く知らなかった。知らないまま突っ走って、砕け散った。自業自得かもしれない。御託を並べたところで、相手のどこが好きかと言われても、優しいところといった、当たり障りのない言葉しか出てこないのだ。所詮、中途半端な気持ちでしかない。

「私は、愛せるのかな……」

 気付きたくなかった己の醜さと惨めさに蓋をし、愛果は眠りについた。



 翌日、愛果は早起きしてある場所へ向かっていった。ジョギングをしながら、神社へ続く道を走っていた。会う可能性があるならば、そこしかない。散歩コースから意図的に外していたので、会わないのはそのせいかもしれないと思い立ったのだ。早朝から向かったのは単純に早起きは三文の徳――というわけでもなく、眠れなかったからである。会うと決めてから、再会したときに何を話せばいいのか脳内でシミュレーションをしていたら、朝を迎えていた。恋愛脳が極まっていた。

「いるとは限らないし。よし!」

 神社の階段をしばらく見つめた後、覚悟を決めて階段を上り始めた。こんな朝からいるわけがないと思っていた。期待をしつつも、諦め半分の気持ちを交え階段を上り切った。鳥居をくぐった瞬間――

「アイカ」
「え?」

 どこからともなく、聞こえてくるやさしい声。そんなに日は経っていないのに懐かしく思える。どこにいるのか辺りを見渡したが、見当たらない。

「こっちだ」

 声は後ろから聞こえてきた。振り返ってみると、そこには前と変わらない姿でノルが立っていた。

「……うっそぉ」

 きっと、鳥居の上に立っていたのだろう。音も何も無かったが、そんなことはどうでもよかった。本当にいるとは思わなかったのだ。愛果はしばらく呆けていた。
 神社はしばらく静謐な空気に包まれていたが、先に静寂を割いたのはノルだった。

「また、会えると思っていた」

 思ってもいない言葉だった。どういった意味なのか、どうしてそう思ったのか。愛果は尋ねるのが怖かった。
 そんな愛果の気持ちを知ってか知らずか、ノルは言葉を紡ぐ。

「もう一度、会いたかった。もっと、話を聞きたかった」
「え……」

 不意を突かれたような気分だった。裏も表も無さそうな、真っ直ぐな言葉に愛果は戸惑う。同じ気持ちだった――そう言えばいいのだろうか。正解が導き出せない。

「一緒に街を見て回りたい。これで終わりかもしれないから」

 ノルの「終わり」という言葉に愛果は、不吉な予感を覚える。一生会えないというものではなく、もっと深刻なものかもしれない。愛果が後悔しないためにやることは一つだ。

「いいよ。今度はノルが行きたいところへ、行こう」

 愛果の答えに、ノルは一瞬だけ悲しそうに微笑んだような気がした。気のせいかもしれないが、少しだけ不安になる。今見れば、無表情でどんどん先を歩いていく。気付けば、神社の階段を降りていた。
 そして、迷わずにどこかへ進んでいく。行きたい場所があるのだろうか。

「自由ねー」
「……そこまで自由じゃない」
「うん? 私のこと滅茶苦茶振り回してるから自由っしょ」
「嫌か?」
「嫌じゃなかったら付いてきてないって。それに、ノルといると新鮮な気持ちになるんだ。新しい世界が見えるっていうのかな。意味分かんないよね。あはは……」
「同じ気持ちだから分かる」
「そっかぁ。そうかぁ。そうなんだぁ」

 愛果は平静を装っていたが、内心かなり嬉しかった。同じ気持ちであることが、こんなにも温かいものだとは知らなかった。灯莉と同じ気持ちでも、そこまで嬉しくはないことを考えると、ノルだからなのか。まだ、答えは見えない。

「どうかしたか?」
「な、何でもないの。それよりも、海だよ。ほら!」

 愛果の指差した先には大海原が広がっていた。夏なので砂浜には海水浴客がいて各々、海を楽しんでいるようだった。愛果たちは砂浜に降りたって、水平線を見つめた。

「海……」
「初めて見た?」
「ここに来る前にも、何回か見たことがある。いつ見ても美しいな」
「へー確かに綺麗だよね。なんか海の広さに比べると、自分の悩みがちっぽけに思えてくるよ」
「悩みがあるのか?」
「別に、大したことじゃないよ」

 ノルの問いかけに、愛果は笑って返す。本当に瑣末なことだ――恋をしたいという、漠然とした願いと悩み。出会いがありますようにと願った結果が、今の状態ならこの先どうなるのか。
 自分だけ舞い上がっているようで、馬鹿らしい。どうせ、終わりとノルが言っているのだから、期待しない方がいい。ひと夏の思い出に留めておこう――愛果は心の奥底で思っていた。

「そういや、結局ノルってどこから来たの」
「前にも言った」
「宇宙って、冗談でしょ? え?」
「君が信じようが、信じまいが関係ない。僕は事実を述べている」
「百歩譲って、宇宙から来たとして……何しに来たの」
「…………」
「え、ちょっといきなり黙らないでよ」

 ノルは基本的に無表情だが、不穏な気配を漂わせているのは何となく分かった。愛果は正直、未だに宇宙から来たという話を信じていない。何か目的があったとしても、別におかしなことはないのだが、何故だか引っかかる。
 しばらく、ノルは黙りこくっていたが呟く。

「……下見」

 少しだけ間があるのが気になったが、理由としてはそこまで変なものではなかった。

「ここらへんに住むつもり?」
「……どうだろうな」

 少し間を置いた、ノルの表情が一瞬だけ陰りを帯びたような気がしたが、すぐにかき消される。
 しかし、ノルがここに住むというのなら、会うのが最後ということにもならなさそうだ。どこかですれ違うこともあるだろう。では、一体なにが終わるのか――そもそも、ここに住むとは明言していないので、考えたところで分からずじまいだ。
 未来のことを考えるより、今を楽しむのが一番――愛果は自分に言い聞かせた。

「他に行きたい場所は無いの? まだまだ日は高いし、色んな場所へ行けそうだよ」
「気の向くままに行く」
「迷子にだけはならないでよね。私もここの街を知り尽くしているわけじゃないから」
「通った道は全て把握しているから問題ない」
「マジ? すごーい」

 他愛のない会話をしながら、ノルが行く先へ愛果は付いていった。ノルといると驚くほど、自分の住んでいる街を知らないことに気付かされる。言い換えれば、新しい発見がたくさんあった。一緒に歩いていて、感じていたがノルはこの世界の隅々まで観察しているようだった。自然から建造物や人の流れなど、細かなところまで見ている。愛果が思わず感心してしまうくらいだった。

「ノルはいつまでここにいるの? 終わりって言っていたから、やっぱすぐに旅立つの?」
「……あぁ」

 ノルの赴くままに歩いていたら、気付けば夕闇が空を染めていた。今は最初にスタートした神社で今日の出来事を振り返っていた。愛果はノルがいつまでこの街にいるのか何気なく尋ねたが、ノルは覇気のない声で答えた。

「あっという間だったなぁ。楽しかったから、いいや」
「もっと、アイカと色んな場所に行きたかった」

 そう言われて、愛果は嬉しさと寂しさが入り混じった、複雑な気持ちになる。この気持ちは、きっと自分が求めていたものなのに、今では虚しく感じてしまう。

「ストレート過ぎるっての。気持ちだけ受け取っておくわ。どうせ、もう会わないんだから……」
「怒っているのか?」

 些細な苛立ちがノルにも伝わってしまったようで、愛果は恥ずかしくなった。

「別に、そういうわけじゃない。楽しかったって言ったでしょ!」
「そうなのか。よかった」
「えっ?」

 ノルは間違いなく、愛果に笑みを向けた。初めてまともに見た不意打ちの笑顔に、愛果は思わず心臓が止まりそうになった。ノルはというと、動きが止まった愛果を心配しているようだった。表情はいつも通り無表情に戻っていた。

「どうかしたか?」
「な、何でもないっ。そろそろ帰らないと怒られるから……じゃあね!」
「待ってくれ!」

 慌てて、ノルから離れようとしたが腕を掴まれる。怒られるのは本当なので、これ以上留まりたくない。ただし、離れたい理由の九割はまともに顔を見れそうになかったからというのは、言うまでも無かった。
 そんな愛果の気持ちなど、当然知る由も無いノルは容赦なく引き留める。

「な、何?」
「…………」

 右腕を掴んだまま動かないノル。愛果はどうしていいか分からないが、振り向いたら終わりな気がした。後ろに手を伸ばしたまま、しばらく硬直状態が続くかと思われたが、すぐに終わった。右手に何かを押し込まれた。物はひんやりとしている。金属類のようなものかと思ったが、確認する前にノルが呟く。

「出来れば、肌身離さず持っていて欲しい。勝手な願いだけど、最後に頼む……せめて君は、君だけは――」

 ノルの声は震えているようだった。何事かと思って、振り向いたが誰もいなかった。最初から、そこに誰もも無かったかのように――愛果は一人神社の境内で立っていた。

「……冷たい」

 右手を開けば、確かにあった――ノルがいたという証明。三角形を重ねた花の形にも見える、不思議な形のアクセサリーが愛果の手のひらに乗っていた。

「ペンダントかぁ。変な形だけど、隠れるからいっか……」

 ノルの「肌身離さず持っていて欲しい」という言葉通り、愛果は首元にペンダントをかけた。夏休みの間なら、誰にも文句は言われないだろう。
 帰り道、風呂に入るときも付けておくべきか悩んだが、途中から付けている感覚がしなくなってきた。慌てて確認したら、ちゃんと付いていた。

「一つになったみたい……」

 意識せず呟いたが、しばらくして虚しさがこみ上げてくる。雲一つない夜空を見上げながら、愛果は家まで送り届けて欲しかったなぁ、と多少思ったが何事も無く家にたどり着いたのだった。
 家に入る前、もう一度空を見上げた。

「ん?」

 遥か遠くの空で星が大きく瞬いた――思わず光に見蕩れてしまう。強く引き付ける光は何の輝きだろうか。星は一瞬だけ大きく光っただけで、それ以降は何も起こらなかった。冷たい夜風を背に受けながら、愛果は家の中に入っていったのだった。



「夏休みも終わってしまう。あっという間だった……」
「何でこんなバカ暑い日に、出歩かなきゃならないんだ」
「いーじゃん。かき氷食べまくるよ」
「……腹壊しても知らないぞ」

 ――何も為せなかった、いい感じに言い換えれば何事も無かった長期休みが終わりに近づいていた。暇を持て余した愛果は灯莉を誘って近所の店でかき氷をほおばっていた。キーンと頭に来るが、夏の暑さにはちょうど良かった。

「また散ったってなぁ。そんな悲観することでもない。どーせ先は長いんだから」
「老人みたいなこと言うのね。占いやってるから?」
「占い差別だ!」
「そんなつもりじゃないって。それよりも、彼は何だったんだろう……って話よ。幻を見ていたような気がする。本当にあった出来事なのかも、分からなくなってきた!」

 夏休みの総まとめ――自然とノルの話題を切り出していた。ノルと出会ったことは事前に話してあったので、灯莉はすんなりと話題に乗ってくれた。

「例のか。悪い奴じゃなかったなら、いいんじゃないのか。それにしても、お前は警戒心が無さすぎるが」

 灯莉は話には乗ってくれるものの、あまり興味無さそうだった。そもそも、恋愛自体に興味が無いというのも大きいだろう。

「そういう問題じゃないって。もうちょっと押してみた方が良かったかな!?」
「ウチに聞くな。縁があればまた会うかもしれないだろう。もしかすると、そのペンダントが導いてくれたりするかもな」

 恋愛方面には興味無さそうな灯莉がまさか、そんなことを言うとは思わなかった。愛果は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で灯莉を見た。

「アンタ、意外とロマンチックなのね……」
「う、うるさいっ。ロマンもクソもあるかっ。私は目に見えるものしか信じないぞ。そのペンダントはウチにも見えるからな」
「何その理屈。意味分かんないって」
「分かるだろうが。お前の言う人間には会っていないが、そのペンダントは確かに存在している。つまり答えはそれにあるということだ」
「答え、ねぇ。あるわけないでしょ」

 御伽噺ではあるまいし、あるわけがない――口では言いつつも、完全に灯莉の言うことを無視は出来なかった。ノルが何のためにこのペンダントを渡したのか、愛果は答えを知らなかったからである。

「しっかし、お前も懲りないな。期間も開けず恋がしたいとか、ウチには到底理解出来ないね」

 灯莉は心底、理解出来ないと呆れているようだった。今の愛果は傍から見れば、失恋したとは思えないほど、元気だった。
その理由は、愛果にとって恋をしたいというのはあくまで通過点でしかないからだ。根本的なことを言えば、世界をガラッと変えてくれるような何かを求めていた。手段の中で手っ取り早いのが恋だと愛果は思っていた。夢の見過ぎだと思われても仕方がない。

「理解出来なくてもいいよ。個人の問題だしね」
「そう言われるとムカつくな」
「何よー思ったことを言っただけじゃん」
「下らないことばっか言ってるから、氷溶けてるじゃないか」
「うわぁ、ショック……」

 氷はすっかり液状になっていた。抹茶味を頼んだので、緑色に染まっている。お茶のようなものだと思って、愛果は器を手に取って飲み干した。ちなみに灯莉はメロンソーダを頼んでおり、すでに飲み終わっていた。
 二人は会計を済ませて、速やかに外へ出た。

「この先どうするかぁ。手詰まりだよ」
「いっそのこと勉学に目覚めたらどうだ? 恋をする暇もなくなるだろう」
「やだよ。それにしても、これだけ暑いと夏が終わらなさそう」
「止めてくれ。暑いのは苦手なんだよ」

 夏の日差しが照り付ける午後。太陽が燦々と輝いて、肌を突き刺す暑さが襲い掛かる。夏の暑さはしばらく続きそうだった。
茹だるような暑さの中、二人は寄り道することなく真っ直ぐ家に帰っていた。どうしようか悩んだ末、家でクーラーをつけて寝転がるのが一番だという結論にたどり着いたのだった。



「運命……」

 愛果はベッドの上で仰向けに寝転がりながら独り呟いていた。風呂にも入って、やることを済ませた後は寝るだけだった。
 しかし、すぐには眠れなかった。帰り際に灯莉から言われた言葉を思い返す。

『……土産話に教えておいてやる。昨日、お前をタロットで占ってみたんだが……死神の逆位置だった。これが意味するのは……逆転、再生』

 事態が変わっていくことを示唆しているらしいが、愛果はピンと来なかった。あくまでも占いである。深刻に気にすることでもない。
 だが、灯莉は少しだけ心配していた。何事もなければいいのだが――と最後に言い残していった。

「考えすぎだっての。ノルとの出会いを予測していたのかもしれないけど、さすがに百パーセント信じてないよ」

 虚しい独り言が部屋の中に響く。
 やはり、ノルと出会ったことは忘れられそうになかった。愛果はペンダントを手に取って眺めてみた。見れば見る程、不思議な形をしている。角度を変えると、色んな光り方をする。真ん中に宝石が入っているように見えた。

「何だろうなぁ。ダイヤ、には見えないけど……謎物質? 大丈夫なのかなぁ」

 教師に言われようが外す気はさらさら無かった。学校が始まってしまうとさすがに目立つので出来ればブレスレットにしたいところだ。

「ぐるぐるーって手首に巻いておけばいいかな? ないな……」

 あまりにも見栄えが悪い気がする。何もせず、そのままペンダントとして使う方がいいかもしれない。最悪の場合、鞄につけておけばいいかと思い、愛果は深い眠りについた。



「あー……」

 翌朝、かなり早く目が覚めた。そういえば、前も早く起きたなぁと思い出していた。その時は神社に向かったのだ。つい最近の出来事なのに、懐かしく思う。

「とりあえず、顔洗ってこよう……」

 扉を開けた途端、違和感を覚える。家の中は、とても静かだった。静けさを通り越して、人の気配が感じられない。

「ん?」

 いつもなら母がとっくに起きていて、朝ごはんの支度をしているはずだった。愛果が恐る恐る、下へ降りるとキッチンには誰もいなかった。電気もついていない。

「あれ、母さん?」

 愛果が呼びかけてみるが、返事は返ってこない。父はかなり、早く家を出るのでいなくてもおかしくはなかった。それにしても、朝から母親はどこへ出かけているのだろうかと愛果は首を傾げる。もしかすると、まだ寝ているのかもしれないので、そっとしておくことにした。こういう日もあるだろうと思い、愛果は再び自分の部屋へ戻っていった。

 しかし、愛果の思いは虚しく、この日世界は大きく変わったのだった。

「誰もいないの!?」

 一日中家にいたが、母の影が見当たらなかった。それどころか、父も帰ってこない。愛果はさすがに動揺していた。一日くらいそういう時もあるのか――と、真面目に考えていた。
 いつもなら、家族で夕飯を食べている時間なのに、今は誰もいなかった。何も手紙を残さず、愛果だけ置いて行ってしまったのか。全く分からない。
 幸い食べるものはあるので、しばらくいなくても大丈夫だが、それも時間の問題だ。

「何が起こっているの? 家出なんて、私なんかしたっけ? そんな怒られるようなことした覚えないんだけど……」

 余っていたカレーを食べながら愛果は真剣に考えていた。そこまで幻滅されるようなことはしていないはずだ。母の様子も昨日は特に変わりなかった。父もいつも通り、のほほんとしていた。代り映えしないが、いつも通りの平和な日常――

「う~ん。よく分からないし、明日また考えよう」

 愛果の心にはまだまだ余裕はあった。不安なこともあるが、調べてみないことには始まらない。明日に備えて、早く寝ようそう決めたのだった。



「嘘……」

 昨日の決意がバラバラに崩され、一気に絶望に染まる。テレビをつけてもノイズが走り、大声で叫んでも誰も来ない。
 愛果は街の様子を見ようと、出歩いてみたが、人に出くわさなかった。まるで、この世界から自分以外の人間が消えてしまったのかと、錯覚するぐらい人に出会わなかった。
 店を覗いても人がいない。意を決して、潜り込んだ他人の家にも、人の気配がなかった。愛果は無我夢中で走り回っていた。
けれども、人はいない。車も走らない。バスもなにも来ない――時計を見れば時間だけが進んでいる状態だ。

「なになになになになに!? あり得ないんだけど!!」

 この街だけなのか、世界規模の異変なのか――ネットも繋がらない以上、世界で何かが起きているとしか思えなかった。

「みんな、どこへ行った?」

 歩いても歩いても、いつもの街並みが広がっているだけだ。人の姿だけが綺麗に消されていた。風景写真を取るには持ってこいだろうが、そんなことをしている余裕はなかった。

「灯莉……!」

 親友である灯莉の家へ向かうことにした。いて欲しいという、願いがあったが見事に打ち砕かれる。灯莉の家は食堂を営んでいるが、店には開店時間だというのに誰もいなかった。客どころか、店主もいない無人の店と化していた。
 勝手に上がり込んで灯莉の部屋へ突撃したが、灯莉はいなかった。最初からいなかったかのように、空間が広がっている。

「何が起こってるのよ……!?」

 灯莉の部屋を見渡してみるが、これといった異変は無い。強盗に殺されたというわけでもなさそうだった。何か手掛かりはないかと、探ってみることにした。

「……タロット」

 灯莉が使っていたと思われる机の上には、水晶やタロットカードが散らばっていた。占いが好きなのでよくやっているのだろう。
 だが、少し気になる点があった。

(カードが重なってる)

 まるで、手が滑って落としたような乱雑さだった。タロット占いに詳しくない愛果でも、これが正しい並べ方だとは思わなかった。考えられるとするならば、急用が出来てカードを咄嗟に手放した――といったところか。

「急用でもさすがに、綺麗に置いていきそうだけどなぁ」

 呼ばれたとしても、ある程度カードをまとめておくだろう。並べている途中なら、尚更配置には気を付けるはずだ。これ以上調べても、分かることはなさそうだったので、愛果は灯莉宅を後にした。
 謎が解けないまま、愛果は街中をとぼとぼ歩いていた。ひょっとしたら、誰かいるかもしれないという希望と、誰ともすれ違わない絶望、このままいけば必ずどちらかが待ち受けている。
 最終的に、愛果が辿り着いた場所はお参りに来ていた神社だった。気付けば夜の帳が下りていた。階段の目の前で立ち止まる。ここに行けば何か分かるかもしれないという、愛果の勘が囁く。
 恐る恐る、階段を登ろうとした瞬間、世界が真っ白になった。白は後ろから迫ってきているようだった。

「えっ」

 振り向いたら、目の前に光の矢が迫っていた。愛果は叫び声も出せないまま、光に貫かれた――と思った。光は愛果をすり抜けていった。身体の痛みは無く、どこにも変化はない。
 一瞬の間に起きた出来事に愛果は、呆然と立ち尽くしていた。この街――あるいは世界で何が起こっているのだろうか。その答えは、果たしてこの先にあるのか。光か闇か――導かれるように階段を上っていく。何度も通った場所なのに、長く感じる。一段ずつ上るたびに、身体が重く感じ、汗が滲む。
 少しずつ、進んでいき愛果は階段を上り切った。社の方を見るが誰もいない。辺りを見渡しながら、慎重に進んでいく。何も無い方がよかったかもしれない。それならば、もうこのまま朽ちてゆくだけだ。愛果は社の前で、神へ祈るように願った。

「この星の民は、どうしてありもしない存在に祈りを捧げるのか――ずっと疑問に思っていた。一説によれば誓いを立てているらしい。君もそうなのか?」
「……願いを叶えろ、って天に向かって吠えてるだけだよ。何の意味もない」

 冷や汗が出てくるが、愛果は後ろを振り返らなかった。声の主は分かっている。ここ最近、心をたくさん揺さぶられた相手――ノルであることは見なくても分かっていた。神社に一陣の風が吹き抜けていく。

「なるほど、そういう人間もいるのか。勉強になる」
「勉強してどうするの。ここには、もう……」

 人がいないじゃない――と、言いかけて踏みとどまる。この世界から人間から消えてしまったと認めたくなかった。ここで認めてしまったら二度と戻れない気がしたのだ。
 そんな愛果の思いも虚しく、ノルは非情な真実を叩きつける。

「生きた人間はほとんど残っていないだろう。浄化の矢で人間たちは苦しまずに消えた」
「消えた……? 浄化?」

 言葉の響きからして、間違いなく考えられる中でも最悪なものだった。ノルが嘘を吐いているようにも見えないのが、苦しかった。何のためにこんなことをしたのか――言いたいこと、聞きたいことは山ほどある。
しかし、背後にいるノルの顔を見るのが恐ろしかった。ノルはしばらく、間を置いてから語りだす。

「僕はこの星の住人ではない。この星を調査しに来た派遣隊の一人だ。元より、この星には興味があった」
「…………は、ぁ?」

 ノルは遥か遠くにある宇宙から来たという。そこは他の星を侵略しながら、勢力を拡大していた。友好的な民族ではなく、征服どころか知性を持つ原住民を消し去って、住みやすい環境に変えていくらしい。
 浄化の矢というのは、ノルの住む星が開発した、害のある生き物だけを消し去る兵器だった。先程、愛果が受けた光の正体は、その兵器から放たれたものだった。兵器はノルが操作しているわけではなく、遠隔で宇宙から放たれている。
ノルは指揮権もない、ただの派遣隊だという。調べた結果から、どういった環境にするべきか精査するらしい。
 ここまで聞いても、真実なのか判断できなかった。愛果は目で見たもの、聞いた話を信じるしかなかった。話があまりにも大きすぎると、かえって冷静になる。
 そもそも、光を穿たれた時点で愛果は消えていてもおかしくなかったのだ。それが、何故だか消えずに残っている。考えられるとするならば、答えは一つしかなかった。

「……それで、アンタは一体何がしたいの。私だけ死なないのって、ノルが何かしたんでしょ?」
「アイカに渡したペンダントには、光を無効化する力がある」
「っ……」
 
 愛果は胸元にあるペンダントを握りしめていた。これを外していれば、今頃自分も消えていたかもしれない。救われたと感謝するべきなのか――そもそもどうして愛果に渡したのか。
 怒りや悲しみが重なり、入り混じった感情が溢れだす。自分だけ取り残された現実を受け入れられなかった。出口の見えない暗闇の中を彷徨う、迷子のような気持ちだった。

「本来ならやってはいけないことだった」
「だったら、どうして!?」
「アイカに消えて欲しくなかったから」

 自分もノルも、今どんな顔をしているのだろうか――未だに振り向くのが怖かった。愛果はこの事実に対して、どんな反応を示せばいいのか、もはや分からなかった。喜びも悲しみも、全ての感情が混沌に落ちていく。

「ノル、殺してよ」
「殺したくない」
「人間もいなくなった星で、生きていけるわけないじゃない! アンタは私に苦しみを味わわせたいのッ!?」

 同情で生きながらえたところで、本人に生きる希望が無ければ意味が無い。人間のいなくなった世界で、どうやって光を見出していけというのだろう。祈りは虚しく砕け散った今、愛果の世界は絶望に塗りつぶされていた。

「それでも、僕は生きて欲しいと思った。この胸の奥底にあるモノを知りたいから」

 ノルの言葉が本当か嘘かどうでもよかった。真っ直ぐな言葉を直に受けて、愛果の心は揺らぐ。飾らない言葉がこれほど強烈だとは思わなかった。自分の置かれている状況を考えたら、とても笑えるものではなかったが、何故か表情は自然と緩み、視界は歪んで見えた。

「意味、分かんない」
「……それに、この星の民には申し訳ないことをしたと思っている。しかし、僕らも場所を求めている。僕らの故郷は無いから」
「無いって、どういう……?」
「滅んだ。跡形もなく消え去った」

 愛果は思わず息をのむ。星が滅ぶなど、想像が出来なかった。だとすれば、ノルたちは延々と旅を続けてきたのだろうか。あの広い宇宙の中、安住の地を求めてきたのか。人間を殺してでも、奪わなければいけないほど――恋焦がれていたというのか。
 それでも、愛果は納得出来なかった。

「いや、いやいや……理不尽じゃない。ある日突然、全て奪われるなんて思ってもいないし」
「それは僕らとて同じだ。星が消えるなんて思ってもいない」

 誰だって死にたくはない。宇宙人とはいえ、その気持ちはどこの世界でも変わらないのだろう。そこまでの気持ちがあるのなら、奪われる側の気持ちも分かって欲しいと思うのは、勝手なことなのか。弱肉強食の世界なら当たり前なのかもしれないが、ここはそういう世界ではない。

「そうだとしても……住民と話し合いをして、穏便に済ませられなかったの? 住まわせてくれないか、って聞かなかったの? だってさ、死にたくないのはみんな同じなんだよ? アンタたちだってそうでしょう。死にたくないから居場所を探しに行ったんでしょ!? ノルみたいに意思疎通出来るなら、分かり合えたかもしれないじゃん!!」
「…………」

 ノルからは返事が来なかった。間違ったことを言ってしまったのか――そう思っていたが、何かが違う気がした。ノルと愛果は同じ――本当に同一であるか? ノルは宇宙から来た存在である。愛果は全てを知らない。時間で言えばほんの少し会話しただけだ。理解出来ているかと言えば微妙だ。何も知りもしないで身勝手なことを言ってしまったかもしれない。真意を確かめようと、愛果が振り向こうとした瞬間、強く体が引き寄せられる。身体をひねらせたまま、愛果の唇は柔らかいものに触れた。

「……っ!?」

 すぐに離れていく温もり。気付けば愛果はそのまま振り返っていた。すぐ側にノルがいる。何をやったのか分かっているか。ノルは平然としていた。自分だけが戸惑っているようで、思わずノルを突き放した。

「いきなり、何してんのっ!」
「愛果と同じ人間のように見えるのなら、それ以上に嬉しいことはない」

 紅い双眸は淀みなく愛果を見据えている。真っ直ぐな瞳に愛果の鼓動は早くなっていく。ノルが何を言いたいのか必死で考えようとするが、うまくまとまらない。好きか嫌いかの二択にすれば、単純なのかもしれないが、果たして決めつけてしまっていいのだろうか。そもそも、何でこんなことになってしまったのか。考えれば考えるほど、深みに嵌っていくようだった。

「この姿は仮初にすぎない。本当の姿は見たら、君たちは嫌悪を抱くだろう」
「そんな、こと」

 愛果が言いかけたが、ノルは首を横に振る。絶対に分かり合えない隔たりが見える。

「……僕の星の者たちは、君たちの姿に嫌悪感を抱いている。彼らからすると、この星へ憧れを抱く僕は異端なんだ。そのおかげで、派遣隊に選ばれたから、悪いことでもないけれど」

 ノルは満更でもなさそうに笑う。ノルは独りでずっと、夢を見ていた。誰にも理解されずとも、諦めずここまで来た。愛果はそんなノルの叫びをこれ以上、否定出来なかった。

「作戦が行われる前に、この世界を見ておきたかった。作戦が始まってしまえば、この星は大きく変わるだろうから」

 ノルのこれまでの反応を振り返る。ノルはこの街の景色にひどく感動していた。街というより、この世界そのものに感激しているように見えた。全てが初めてみるような、感想を抱いていた。その理由がやっと腑に落ちた。
 ノルは心の底からこの世界を気に入り、この星に焦がれていた。
 しかし、この星はいずれ侵攻されてしまう。その前に自分の目で見たかったという。原住民が消えた後は、住みやすいように変えられてしまうだろうから――ノルは各地を一通り見て回っていた。
 旅の最後に立ち寄ったのが愛果の住む街だった。神社にいたのは、神という存在に興味を持っていたからだそうだ。そこへ愛果が現れた。本来ならば、交流はしないはずだったのだが、愛果が必死に祈りを捧げている姿を見て興味を抱いたという。一部始終を見られていたのかと思うと、愛果は気恥ずかしさを覚える。

「君と……アイカと出会って、さらにこの星が気に入った。ここに住むアイカのことも――」
「ノル……」

 これが普通の人間同士の告白だったら、愛果は有頂天になっていただろう。
 しかし、相手は宇宙人であり侵略者。敵と言っても過言ではない。素直に喜べる物ではなかった。
 そのうえ、気に入ったという個人的な理由で、自分だけ生き残ってしまったのかと思うと、為す術もなく消えてしまった人たちに申し訳が無い。これから生きていくことを選んだとしても、先の不安や恐怖の方が大きかった。たとえ、ノルがいてくれるとしても、この先裏切らないという確証があるか。
 報われない想い以上に、苦しい気持ちになる恋があるなんて、愛果は思いもしなかった。息苦しくて、必死に空を足掻いている気分になる。
 肌を刺すような、冷たい風が木々を揺らし、葉音がいつもより大きく聞こえてくる。

「……何か変わらないかなって、お祈りもしたし、占いもしたけどさ。こういうのまでは求めてなかったんだよ。どうしてくれるのよ。何よ、運命的な出会いって。運命どころか世界終わってるじゃない」

 人のいなくなった星はどうなっていくのだろうか。ここはノルたちにとって住みやすい星になっていくのか――全く想像もつかない。愛果はここに居続けることが出来るのだろうか。

「やっぱり、消えたかったかも」
「それでも、アイカには消えて欲しくなかった。今はアイカだけが、この世界そのもの――僕にとっての星」

 愛果の頬からは雫が伝っているが、拭う気にもなれなかった。視界は変わらず歪んで見える。ノルの姿もあやふやだった。
 愛果はノルの事が嫌いなわけではないむしろ、好意を抱いていた。言葉を交わした回数は少ないかもしれないが、小さなことで目を輝かせ、喜ぶノルの純粋な心に惹かれていた。
 だからこそ、このような結果になって、どうしたらいいか分からなかった。心の赴くまま、やりたいこと――あぁこんな世界で何がある。
 愛果の精神は限界に来ていた。先程受けた光の影響もあるのかもしれない。頭の中は星が巡る様にくらくらしていた。

「私、どうすればいいのかな……」
「側にいて。それだけでいい」

 ノルはそっと愛果を抱き寄せた。とても、やさしい手つきだった。愛果はノルに身を委ねる。
 結局、殺してくれと言っているのは、一人で消える勇気がないからだ。この世界、一人でないだけマシなのだろうか。この温もりを信じていいのだろうか。今はもう、深く考えたくなかった。好きか嫌いか――余計なことを考えず、ゆっくりと沈んでいきたかった。

「どこへでも、連れてってよ。出来れば……静かに眠れる場所が、いい」
「……分かった」

 ノルは愛果の言葉に首肯する。
 どこへ向かうのか――愛果は全く想像出来なかった。薄れゆく意識の中で、愛果は自分の願いを思い返していた。
 いるかも分からない存在へ、自身の世界を変えてくれるような運命を願った。
 結論から言えば、祈りは届いた――その結果がこれだ。この世界に神などいないのだから、当たり前だろう。思い描く形になるわけがない。

 恋も愛も砂塵と化した世界。醜さも何もかも、全ての運命が宇宙の中に飲み込まれていった。

 それでも、まだ温もりを感じる。脈を打っている。自分は消えていない。ノルが生かしてくれた命だ。想いも消えることは無く、残り続けている。この温かさが想いが答えになるのか――聞いたところで誰にも分からないだろう。自分でさえ分からないのだから。

(それなら、私はこの想いが永遠に変わらないよう、祈ろう)

 闇の中でも、地獄でも、どこまで行っても不変の想いであるように――愛果は暗い宇宙の中で祈った。

Return